録画しておいたETV特集「21世紀を夢見た日々 -日本SFの50年-」をようやく見た。
過去にいろいろな作家のエッセイ等で読んでいた事ばかりだったので、内容に関しては物足りない部分はあったものの、活字で読むよりは当時の映像と音声でもってあらためて耳にする事のインパクトの大きさは凄かった。特に半村良の「SF振興会……」という音声を聞いたときには思わず感動してしまったよ。よけいな解説なんか入れずに、これだけ流して欲しいと思ってしまったけどさすがに無理な注文だよな。
後は、ひそかに今日泊亜蘭が登場するんじゃないかと期待していたけど、やっぱり無理だった、残念。SFと映像メディアとの関係が主題の一つでもあったのに平井和正も登場しなかったが、これも仕方ないか。
終盤になって、ディティールにこだわっていくしかないという発言が出たのだが、この辺をもう少し突っ込んでいって欲しいと思ったところで終わってしまったもの残念だった。駆け足ながらもせっかく現代まで結びつけたのに。
筒井康隆が言ったとおり、SFは拡散と浸透していって雲散霧消してしまったが、浸透していった部分が消えてしまっただけで、中心部まで消えてしまったわけではない。
SFの黄金時代が60年代でも70年代でも無く、少年時代である以上、無くなるわけがないのだ。
で、少年時代といえば……
- 著 銀林 みのる/
- 販売元/出版社 ソフトバンククリエイティブ
- 発売日 2007-09-21
この世には鉄塔の好きな少年と鉄塔の好きではない少年の二種類がいる。などと手垢の付いた表現は好きではないのだが、私の場合は後者だった。
そもそも近くに鉄塔などなかったのだから好きになりようがなかったのだ。だからといって成長して自転車で遠出をするようになり、鉄塔を身近に見るようになったら、鉄塔が好きになったのかといえばそうでもない。鉄塔から琴線に触れる何かを感じることはなかったのである。
むしろ鉄塔よりも電柱のほうが好きだった。いや好きというレベルではなく、どちらかといえば身近な存在として感じていたのである。なにしろ自分の家の敷地内に電柱が立っていたのだから、身近に感じない方がおかしいかも知れない。
しかしあまりにも身近過ぎると空気のような存在となり、何も思い入れが無くなってしまうのも確かである。ただ、よく電柱によじ登った。そもそも自分の家の敷地内にあるのである。子供の論理でいえば登るなという方がおかしい。ついでに言えば子供の論理は拡大解釈しがちで、敷地内の電柱だけではなく近所の電柱にもよく登った。
しかし、所詮は電柱である。あまり登りすぎれば感電死してしまうという危険性は知っていたので非常に中途半端な地点までしか登らなかった。そしてそれ故に登ってもあまり面白みもない。電柱に登っていた期間はほんのわずかな期間だった。
そう考えると電柱よりは鉄塔の方が数倍面白いに違いないと思うし、自分の家の敷地内にあるのが電柱ではなく鉄塔だったらどんな素晴らしい少年時代をおくっていたのだろうかと空想に胸躍らせるのだった。
というわけで、ひょっとしたらありえたかも知れない少年時代の想い出をこの本で追体験できるかもしれないなどと思ったのであるが、他人の想い出は他人の想い出であって自分の想い出とする事は適わないのであった。
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