幼年期の終わり

大沢在昌が流行作家にインタビューをしたものをまとめた『エンパラ―大沢在昌対談集』が新装版になったので何か変わったのかなと手にとって悲しくなった。
いや、手に取る前からおおよその予想はしていたのではあるのだが、目の前に事実を突きつけられるとやはり衝撃度は大きい。
こちらが旧版新装版だ。
その昔、「日本SF冬の時代論争」もしくは「クズSF論争」なるものがあったのだが、実に後ろ向き的な論争で不毛なものだったけれども、この論争における唯一の被害者は梅原克文だったんじゃないかと思うことがある。こんな論争に参加さえしなかったならば今でも活躍し続けていたんじゃないだろうか。もっとも人の性格というものはそう簡単に変わるわけではないので論争が起きなくっても同じ結果になったのかも知れないが。
で、光文社といえば……
幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)

  •  クラーク/
  • 販売元/出版社 光文社
  • 発売日 2007-11-08

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二十数年ぶりに読み返したこととなるのだけれども、意外と細かいところまで覚えている自分の記憶力に驚いた。もっとも覚えていない部分の方が多かったのも事実だが。
新たに書き直された第一章の部分はといえば、ほんの数ページ。冷戦が終結し、東西が協力しあって火星へと目指し、いよいよ宇宙への本格的な第一歩を記そうとした矢先にオーバーロードがやって来て宇宙進出の道を閉ざされてしまうという形に変更したのはそれはそれで、まあこれもありかなとも思うのだが、冷戦が宇宙人がやって来たことで終わってしまったという初期バージョンのほうがインパクトという点ではやはり大きかったんだよなあ。
というわけで、宇宙進出の第一歩が閉ざされたところから始まる新バージョンはそれ故にいきなり閉塞感が漂ってくる。自分自身が年を取ったせいも多分にあるだろう。始めて読んだときには自分もひょっとしたら進化するかも知れないなどと思う余地もあったのに対して、今ではすっかり年老いて、どう考えても完全に取り残されてしまう側なのだ。
それはともかく、今回の新訳でウィジャ盤がどのように訳されるのか楽しみにしていたのだけれども、ウィジャ盤という言葉自体が全く登場しなかった。福島正実訳ではどうだったのか調べたら、こちらでもそんな言葉は使われていない。どうやら沼沢洽治訳だけに登場していたみたいだ。もっとも手元に本がないので、こちらの訳でも使われていなく、ただ単に勝手に自分の頭の中で補完していただけなのかも知れないが。
クラークがウィジャ盤を登場させるということにずっと違和感を抱き続けていたのだが、今回のクラークの前書きを読んでなんとなくウィジャ盤が使われた理由がわかったので長年の疑問が解けて良かったよ。

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