経過報告20

9/24

アパートへ戻る車の中で気がついた。
二時間前まで、私の運転する車の助手席には、妻が座っていました。
今は誰もいません。
手渡された、妻のかばんがポツリと置かれているだけです。
覚悟はしていましたが、その十倍くらいの覚悟が必要だったようです。さすがにまいりました。
朝までシミュレーションしていたせいで寝不足。体は不調だが、妻が用意してくれた朝ごはんを妻と一緒に食べる。
今朝の妻の様態はそれほど悪くないようだ。
昨日の妙案どおり、階下の住人に悟られないように外で予約しますと紙に書いて妻に見せる。妻は納得してくれる。
病院が始まる時間までのんびりと過ごす。
「これなあに」と妻が、先ほど私が書いたメモをみて聞いてくる。一瞬、、そこまで記憶力が衰えてしまったのかと心配になるが、メモの裏の内容のことを指して言ってきたらしい。
時間になり、外へ。五分ほど歩いて病院へ電話。
脳波の検査をしてもらうために病院へ連れて行く旨を伝える。つじつまは合わせてくれそうだが、再度、私の入院への意思を確認してくる。
当たり前のことだが、医療保護入院となると私の意志が重要になる。人権という問題も絡んでくる。
診断の結果、入院のほうがいいとなれば入院させますと伝える。
時間の調整が必要なので折り返し電話をもらうということになり、電話を切る。
すかざず今度は、市の精神健康保険センターへ電話。統合失調症の家族教室への参加申し込みだ。
講座の内容よりも、同じ地域で同じ患者を抱える家族の皆さんとのコミュニケーションをとるための手段だ。
電話を終えアパートへ戻る。
スケジュール調整後、折り返し電話してくれる旨を妻に伝え、横になる。
今日じゃなくっても土曜日でもいいわよと妻が言うが、土曜日ではまずい。
よくよく話を聞いていると、妻の付き添い後、私が仕事へ行くと思っているらしかった。今日は休みにしているというと、もっと早く言ってよと怒る。
今年になってよく休むようになった私のことを心配してくれるが、たまにはいいじゃないかとなだめて安心させる。
携帯に連絡がくるならばどこかへ行こうと妻が言う。身振り手振りで行き先を示すのだが、妻がどこへ行こうと思っているのかさっぱりわからない。
「ああ、まったく通じない人ね。わかってたけど」
朴念仁ですみません。
と一瞬思ったりもするが、妻の言葉をさらりと受け流す。
妻が行き先を言葉に出す。ああそこだったのか、と納得する。
そして妻と一緒に、神社へと向かう。
途中で病院から電話かかり、二時の約束となる。
ひょっとしたら最後になるかもしれない妻とのデートだ。
途中のスーパーで昼飯を買い、目的地へ。
妻は神社の池の鯉に麩菓子をやりたがっていたので近くの土産屋で麩菓子を買おうとするが、「鯉にはあたえないでください」の警告文があり断念。
「そういえばあたりまえよね」と妻は言いながらもちょっと不満足そう。
池までくると鯉が泳いでいる。池のそばに鯉の餌が売っていたので、早速買い、餌の半分を妻の手のひらへ。
鯉に餌をやる妻の姿をこっそりと妻の写真を撮る。
これが最後かもしれない。
涙が出そうになる。
餌がなくなった後、境内でお参りへ。
「百十五円が一番願いが叶うらしいんだって」と妻が言う。
「ひょっとしたら百五十円かもしれない」と、いつもどおり当てにならない妻のトリビアだった。
私は財布から百十五円をとりだしてお願いをする。
お参りの後、妻はいつもどおりおみくじを引きにいく。
結果は末吉。
なんてことだ。
しかも病気は長引くと書いてある。
しかし、妻は自分のことは病気だと思っていないから大丈夫だと自分に言い聞かせる。
私はおみくじは引かない。
お参りをしておみくじを引き、することがなくなってしまった。
駐車場の車の中で妻は内職をし始める。
涼しければ、時間までここにいてもいいけれども、ここはちょっと暑すぎる。
この間、花火を見に行った公園まで行くことにする。
始まりがそこで、そして終わりがそこなのもいいかもしれないと思った。
のんびりと田舎道を車で走る。
「いつか年をとったら、こういう静かな場所で、平屋の一軒屋でいいから過ごしたいね」と妻が言う。
「一部屋は○さんの本の部屋で、テーブルをおいて、○さんはそこでコーヒーでも飲みながら本を読んでいるの」
いつかそんな日を迎えることができるのだろうか。
できたらいいに決まっている。
しかし妻を入院させることは、もう心に決めている。
公園で昼食をとり、妻は再び内職を始める。
その様子を再びこっそり撮影する。
明日は妻の友達が遊びに来ることを思い出し、妻の友達へ説明しなければいけないなことに気づく。妻の携帯からこっそり相手の電話番号を調べ上げないといけない。
同じく内職先の会社へも伝えておかなければいけない。
妻をトイレへ行っておくように言い含め、トイレへいっている隙に、携帯から電話番号を調べる。勝手に携帯を調べることを心の中で妻に謝る。
「そろそろ行きましょう」という妻の言葉を合図に病院へと向かう。
病院は比較的感じが良かった。しかしこれは無関係な人間からみた感想だ。ロビーで妻は、いつもどおり緊張して吐き気をもよおしてきたらしい。
問診票に妻は、通院履歴無しと書く。隠し通すつもりだ。
診断前のカウンセリングでも妻は、体のぴりぴりは訴えるが思考盗聴に関しては隠したままだった。
しかし、カウンセリングさんもしたたかで、幻聴に関してそれとなく聞き取ろうとする。さすがうまいと思いながらも、妻はその上手を行き、隠し通した。その間私は沈黙を守った。
旦那さんのほうで追加することがありますかと聞かれたので、どうしようかと悩む。相手のカウンセリングさんは今回の入院に相談に乗ってもらった方だったので、今の妻の内容のままで大丈夫かなという気もするが、妻の話を真実ととれば私のほうが妻を勝手に病人扱いする頭がおかしい人となる。
「奥様が言われたことがすべてですか」という問いかけに、私の思いよ伝われと相手の目を見つめる。
相手はプロなのだから、正しく理解してくれるだろうと思うことにする。
そしてカウンセリングは終わり、妻と一緒にロビーで診察待ちとなる。
悩んでいることは隠さず話してしまったほうがいいよと妻に言う。
しばらくして診察が始まった。
女医さんだったので、妻も少しは話しやすくなるかなとちょっと安心するが、妻は思考盗聴までは口に出さないだろうなあと思った。
統合失調症の患者さんは、押しに弱いと聞く。強く言い切られると根負けしてしまうらしい。
先生はやさしく、理解のある言葉で問いただし、そして相手の言葉を強く肯定する。
しかし、妻は手足のしびれはうったえるものの、幻聴や思考盗聴に関しては沈黙を守る。
先生は妻の答えを肯定する。
「そうだよね」
「そのとおりだよね」
「誰だってそうなれば苦しいよね」
とてもまねできそうにないほどうまい。
そして少しの沈黙の後、確信をつく。
「自分の頭の中が漏れているって感じはしない?」
「あ……、はあ……」
そしてうなずく。
難攻不落だった妻が陥落した。
先生は妻の言葉を力強く肯定し、そして言い切る。
ドーパミンだの、薬を使わなければ駄目だの、ひたすら妻の苦しみを力強く肯定し、そして入院したほうがいいと言い切る。
妻はもう少しで押し切られそうな感じだった。
任意入院に関しての規約を読み上げ、そして受け取りのサインと入院許諾のサインを促す。
それに妻がサインをすれば、本人の意思による入院で、妻も自分の意思で入院、まあ妻のことなので後になって悔やむだろうけれども、本人にとってもっとも理想的な入院になるはずだった。
が、しかし。
「一日考えさせてください」
そりゃそうだ。誰だって検査に来たつもりなのに入院が必要です、それも今からなどと言われれば、一日くらい猶予がほしい。おまけに明日は友達が遊びに来る日だし、コンサートだって近い。
入院してしまったら行くことさえできないかもしれない。
今、妻は、自分の症状をまだ自分で抑えることができている。だから、二三日の猶予を与えてもらったって問題を起こさない自身があると思っていることだろう。
自分だってその立場にあればそう思うに違いない。
妻は精神科に対して恐れを抱いている。誰だってそんなところに入院するのは怖いにきまっている。
「ご主人さんはどう思われますか」
「妻の苦しみを取り除いてあげたいです。入院して治療すれば、前よりもよくなりますよね」
「少なくとも私はそうするつもりです」
私の心はすでに決まっている。私の質問は、妻が少しでも私に裏切られたと思わないようにするための質問にすぎない。
「入院させます」
「あの、ちょっとまって」
あまりの急展開に妻は状況把握ができていないようだ。そりゃそうだろう。私だってここまでのことを事前にシミュレーションし、病院側と調整をとってきたから対処できたのだ。
いきなりのご主人さんの同意による医療保護入院をさせますかなんて問われたら、一日待ってほしいと答えるにきまっている。
「あなたに今、一日の猶予を与えたら二度とこの病院へこないでしょう。お薬も決められたとおり飲むとは思われません。今、アパートにいることがつらいでしょう?」
「つらいです。けど、海とか離れた場所にいれば楽になります。そういった場所へ行けば我慢できます。西洋の薬ではない方法で自分のやりかたで治していきたいのです」
「西洋の薬ではないということは漢方ですか?漢方なら副作用がないと思っていますか?心が楽になる場所に行っても、治り方が遅くなるだけです。遅くなればなるほど薬の量は増えます」
統合失調症の患者に論理で説得しようとしている。しかしこれは言葉の力強さと迫力なのだろう。先生は押し切る。
少し妻がかわいそうになる。
「仕方がありません。任意入院ができなくなりましたので、保護者の同意による医療保護入院となります」
今度は私が途惑う番だった。もう少しやり取りがあるのだろうと思っていたからだ。
医療保護入院に関しての規約が読み上げられる。
妻は完全に途惑っている。必死に何が起こっているのか理解しようとしている。
こんなことは二度と体験したくないと思った。
「ここに受け取りの署名をしてください」と、私に差し出す。
今日、この日、この瞬間のことをずっと前から覚悟をしてきたはずなのに、手がふるえる。私が署名してしまっていいのだろうか、そう思ってしまう。しかし、決めたのだ。強い意志で。
私が署名をしているうちに妻はようやく状況を理解し、そして自分の置かれた状況を受け入れたらしい。
「病室へ行きましょう」と、白衣の女性が三人現れ、妻を病室へ連れて行こうとする。あくまで、一緒に行きましょうという形で、体に触れたりはしない。
しかし妻が暴れれば強制的に押さえつけさせるだろう。
奥には男性が一人立っている。うつむき加減で立っているところが、この場の雰囲気を重くさせる。
心が折れそうになる。
入院を躊躇する家族が多い理由がよくわかる。
やっぱり入院はやめますといい言いそうになってしまう。
「友達と実家に電話をかけさせてください」
妻は気丈にそういう。
友達には急に今日入院することになったと話をする。
続いて妻の実家へ。
「入院することになった。精神病院よ。もう私は終わりだから、後はお願い」
「一生入院させることなんてないから大丈夫だ」と私は言うが、妻には届かない。
「もうあなたのことは信用できない」
覚悟はしていたが、きつい言葉だった。一番聞きたくない言葉だった。
「薬は絶対飲んじゃだめだから」と電話の向こうで義母が言う声が聞こえる。
あまりの偏見に腹が立ってくる。
が、しかし、突然電話がかかってきて入院させられたなどと言われれば誰だって混乱するだろう。そしてそんなときだからこそ本音が出る。
妻は病室へ、私はその場に残り、先生に妻の家族の精神科への無理解さについて説明をした。
「他の人から退院の要請があっても、ご主人の許可を得なければ退院できないということで対処しますね」
それも覚悟の上のことなので同意する。全ての責任は私にある。
妻のいる病室の階まで行くが、妻には合わせてもらえず、代わりに入院に当たって必要な荷物と規則の用紙をもらう。
今日は荷物だけ用意して持ってきてください。
って言われるのだが、こういうとき男は無力だ。
洗面用具程度は用意できるが、衣服となると途方にくれる。
帰りのエレベーターの中で、看護師さんに、「さすがに疲れました」とつぶやく。
「奥様の実家のほうがやっかいですね」と言ってくれる。どうやって納得させようか頭がいたくなってくる。
無意識に実家へと向かい、荷物に関して母の協力を得る。母はすんなり協力をしてくれるが、アパートへ行く途中、また、離婚を匂わす言動を言う。
「だったら父さんがそうなったとき、母さんは離婚するの、せめて今くらい優しい言葉をかけてよ」
悪気がないことはわかっているが、もう少し相手の感情をくみ取ってほしい。
「入院したのなら後は先生に任して、少しは休んだら?今まで大変だったんだから」
「病気を治すことは任せるしかないけど、僕の信頼は失われちゃったから、これから失った信頼を取り戻さなくっちゃいけないんだよ」
「……」
「病気は治るかもしれないけれども、、信頼が失われたままじゃ、離婚だよ。病気が治ったって幸せになれるとは限らない。だから今までこれだけ苦しんでいたんだよ」
「……それはつらいわよねえ」
母はようやく黙った。
アパートに着き、箪笥をあけ、下着やら服やらを見繕うが、うまく頭が働かない。
母は、「タオルの枚数はこれでいいわ……あらやっぱり足りないわね」などと、いい加減なそろえ方をしている。しかし、ありがたい。いかに入院させるかで手一杯で、入院後の荷物のことまで想定していなかったのだ。自分ひとりだったらとうてい用意することなどできなかっただろう。
「自分ひとりじゃ限界だった。ありがとう」
母に言った。
小銭を入れた財布の中に、無駄かもしれないけれども、
「いつだって味方だ、僕を信じろ」
とメッセージを紙に書いて入れておいた。
荷物の受け渡しのとき、妻に会えるかもしれないと思ったが、入り口で荷物を渡してそれで終わりだった。妻の様子を聞くと、妻は横になっていると答えてくれた。
母を実家へ送り返したあと、空っぽの助手席が私を深い悲しみに追い込んだ。闇雲に寂しくなる。声が出てしまう。
さびしい、
さびしい、
さびしい、
さびしい、
さびしい、
さびしいよう……だれか……だれか
たすけて
叫びながら、泣きながら車を運転してアパートまで帰った。そして今日が本当の始まりだということを身にしみて感じた。
ビールを飲み、無理やり飯を詰め込み、そしてこの文章を書いてようやく少し落ち着いてきた。
先週処方してもらった精神安定剤を飲む。効いてくれるといいのだが駄目ならば、また病院へ行こう。
妻は実家へ帰っているのだと思うことにしてみることにした。
いつもならそろそろ電話がかかってくるころだ。普段ならば、いい加減にしてほしいなと思うくらいの長電話だ。
しかし、今日はいつまでたってもかかってこない。

コメント

  1. T より:

    こんにちは、Takemanさん頑張られましたね。
    わたしは専門家ではないですし奥様のいままでの状況がよくわからないので無責任にこのようなことを書くのはよくないかと何度も躊躇いたしましたが少しでも心の支えになればと…
    わたしは幻聴幻覚を子供の頃から持っており、15歳くらいから精神科に通院しております。現在も(41歳です)薬の力を借りながら社会生活を送っています。
    通っているのは東京ではここに行ったら終わり、などと揶揄されることも多い松沢病院です。それでも就職もできましたし時間はかかりましたが病をコントロールする術も身に着けました。
    ご存じかともおもいますが統合失調症でも薬を飲みながら社会人として働いている人も沢山います。昔よりも効き目があって副作用の少ない薬も増えています。悲観なさらず希望を持ってください。
    Takemanさんはわたしの家族や夫よりも理解も愛情も深いとおもいます。奥様が羨ましいです。
    本当に大変なこととは思いますが家族の支えがなによりです。
    奥様が苦しみから解放され、お二人の穏やかな生活が戻ることをお祈りしております。

  2. Takeman より:

    Tさんのお言葉は、じゅうぶんに私の心の支えとなりました。
    コメントを書いて頂き本当にありがとうございます。
    私は所詮、支えてあげることしかできません。そこがもどかしいところでもあります。
    まだ、希望を見失ってしまう時もありますが、見失っても見失っても、何度でも見つけなおして行きたいと思います。

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