経過報告21

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夜に飲んだ精神安定剤が効いてくれたのか、比較的気分は穏やかだ。
すかさずテレビの電源を入れる。何か音がしていないと寂しいのだ。
薬缶に水を入れ、お湯を沸かし、いつもと同じように珈琲を入れる準備をする。
朝食用に買った食パンを食べるが食欲がない。栄養剤と食べ残しのスナックバーを食べ、可燃ゴミの日だったのでゴミ出しの準備をする。
歯を磨いて顔を洗った後、妻の化粧品箱に目がいく。そうだった、昨日、妻の基礎化粧品を持っていくのを忘れていた。
いつも通り会社に行く時間にアパートを出て、病院へと向かう。
その途中のコンビニで、手紙セットが無いか探してみるのだが、あいにくその店には置いていなかった。まあ土曜日か日曜日にでもゆっくり探せばいいか。
病院で入院手続きを行う。担当者の話を淡々と聞き、必要なところに署名をし、そして淡々と印を押していく。
入院時に預かり金が二万円必要だと言われて焦るが、財布の中にかろうじて二万円があったので二度手間にならずにすんだ。
手続きが完了すると、面会されるのでしたら病室へどうぞと促され、主治医の先生との治療方針についての話だと思いこんでいたのでとまどってしまう。
心の準備も出来ていないのにいきなり面会かと思いつつ、受付へ行こうとすると看護師さんに名前を呼ばれ、今までの経緯に関して聞かせて欲しいと言われる。
治療に役に立ちそうな妻の過去と、これまでの経緯に関して行ったり戻ったりしながら出来るだけ細かく話すのだが、妻の複雑な生い立ちに少し絶望的な気分に襲われる。
一通り話終わり、看護師さんからの質問に関しても答え終わって、ようやく妻との面会。
妻はベットに腰掛けてぼんやりとしていた。
私は妻の横に腰掛け、化粧品の入ったバッグを手渡す。
「着れない下着や夏物のズボンを持ってきてどうするの、役に立たないわね」
「うん」
さっき、看護師さんは「今日はよく眠れましたかと聞いたとき、はいと答えてくれました」などと安心出来る言葉を言ってくれたのだが、他人には人当たりがよく、身内にはきつい、いつもの妻だった。多分あの言葉がでるだろうなと覚悟を決める。
「洗剤持ってきて、洗濯できないから。あとテレフォンカードも」
「うん」
「もうお終いだわ、どうしてくれるの。せっかく出来た友達も失ってしまうし、廃人なってしまう」
「そんなことはないよ」
「私、昨日、飛び降りてやろうと思ったわ」
「……」
「あなたは何も知らない。もうあなたの事なんて信じない。退院したら離婚届けを用意しておいてよ」
覚悟はしていた。だからショックは受けなかった。淡々と妻の言葉を受け入れる。
精神安定剤がまだ効いているのだろうか、涙は出てこない、ショックも受けていない。私の心は凍結したままだった。
病気がそういう言葉を言わせていると先生は昨日、言ってくれた。本にもそのようなことが書かれている。
しかし、病気が本当にそういわせているのだろうか。信じたいけれども、信じることができない。
「引っ越しはどうするの。するつもりなんて無かったんでしょう」
「いや、僕の方で探して、見繕ったら持ってくるよ」
「私が捜したかったのに」
「引っ越しって……、離婚するつもりなんだろ?」
「……」
辻褄のあっていない妻の思考だった。やはり病気がそういう言葉を言わせているのだろうか。
妻から持ってきて欲しい物を聞き、メモに書いて、そして会社へと向かう。
夕方付近になると無意識に携帯のメールをチェックしてしまう。
妻曰く、「私の日記だ」という妻からのメールを見ようとしてしまうのだ。少なくともしばらくは届かない、妻から送られてくる妻の日常報告。振り返れば妻は、日々苦しんでいたはずなのにその苦しみを書いて来たことはほとんど無かった。たわいのない文面だったけれども、それなりに愉快に過ごした様子のわずか数行の妻の日記はいつもいつも楽しみだった。
ラジオはいらないと言っていたが、あればあったでいいに違いない。早めに帰宅し、帰り道の家電量販店で充電型単三電池と充電器を買う。今朝、二万円を払っていたのをすっかり忘れていたので、レジで焦るがかろうじて足りたのでほっと一安心する。先に書店へよろうと思っていたので危なかった。
で、帰ってくれば帰ってきたで、小型ラジオがどこにあるのか探し出すのに一苦労してしまう。妻の持ち物なうえに、妻は収納下手で、とんでもない物の組み合わせでしまい込んでしまう事があるからだ。もっともそうかといえば、実に見事に収納してしまう一面もあったりするので、よけいに探し出すのに苦労してしまう。
自分の物以外の場所を探し回りようやく見つけ、やっと落ち着くことができたと思ったら、妻の実家から電話が入る。
妻が心の病で入院が必要だということは納得してくれたらしい。私のことを心配してくれて、妻の実家の方で病院を探し、入院させても構わないと言ってくれる。
気持ちはありがたいのだが、おそらく、途中で退院させてしまうだろう。
覚悟を決めて望んだ私ですら、任意入院から医療保護入院へと切り替わったあの場面、妻のとまどい、医師による規約の読み上げ、それはアメリカの警官が犯人逮捕時に読み上げるミランダ権利のようでもあった、あの場面、入院させるのは考えさせてくださいと思わず言いそうになってしまったのだから、生半可な気持ちでは入院などさせることなど出来やしない。
今までこれだけ苦心して精神安定剤の力を借りてまでも心をささえ、入院までたどり着いたのだ。私が妻を治すのだ。
そんな言葉は口には出さなかったが、心では叫んでいた。
しかし、受話器をおいた後、自分が妻を治すなどというのはおこがましいことではないのかとふと思った。
これだけがんばってきたのだから私の思うとおりにやらせて欲しい、妻のことを考えているのではなく、ただ単にそう思っているだけなのではないだろうか。思い起こせば妻と結婚したときも、妻のすぐにくよくよしてしまう性格を自分が治してやろうと思っていたことがあった。そして結局そんな考えはおこがましいにもほどがあることだったわけで、妻の性格はあまり変わってはいない。
いや、そうじゃないのだ。
治療は始まったばかりだし、ここでまた病院を変えるのは妻にとっても負担になるのではないだろうか。
いったん病院を退院し、外の世界へ出たにもかかわらず、また入院させられてしまう。自分だったらどうだろうか。
向こうで入院先の病院を探してもらうのは別に構わないかもしれない。こちらでの治療に疑問を感じるようになったなら、別の病院へと移っても構わないだろう。
ビールは飲まないつもりだったが小さい缶ビールを一本飲んでしまう。
今日の所は精神安定剤は飲まなくってもいいかと思ったのだが、まだ六袋ほど残っていたので飲むことにした。
深夜、強烈な下痢におそわれトイレで苦しむ。

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