経過報告25

9/29

深夜三時頃に目が覚める。鼻の奥が完全に乾燥した感じで、これはまずい。
今年の春先に、風邪を引いて喉の痛みで通院したときに処方してもらった薬が残っていたことを思い出し、それを飲み、寝汗をかいていたので汗を拭き下着とパジャマを着替えてまた寝る。
朝、目覚めると体の調子は深夜と変わらず。治らなかったと思うより、ひどくならなかったからよかったと思うことことにし、コーヒーと食パンを食べ、薬を飲む。
ゴミ出しをしながら、妻の内職先の会社へ。
そこの社長さんに曖昧に事情を説明し、途中までの分と未着手の分を手渡す。
「体が良くなったらまたおいでって言っておいてね」という言葉に涙が出そうになる。
いい人だなあ。
自分の方の風邪の治療に明日の予約を入れようか迷うが、今日の面談結果で明日、またフル活動しなければいけなくなるかもしれないことを思い、自分の体の方は何とか持たせてみようと予約するのは止める。
午前中に、amazonで注文しておいた「精神科セカンドオピニオン」が届く予定だったので、それまで布団の中で寝る事にする。
本を受け取り、パラパラっとめくっているうちに義弟を迎えに行く時間となったので車で駅まで。
駅には約束の十分前に到着し、我ながら時間厳守だよなあと、自分で自分のことを少しほめてみる。
義弟を乗せ、妻のいる病院へ。
義弟は事前連絡なし入院させてしまったことを暗喩に非難してくる。まあ仕方がない。逆の立場だったら自分もそうしていただろうし、説明不足だったことは確かだ。しかしなあ、しかしだよ、私だって入院なんかさせたくなかったんだよ。最後の最後まで、病院の先生が、素人には思いもつかない治療法を提示してくれることを期待していたのだ。しかし、奇跡ってのは起きないもんだねえ。
いつもならば面会票を書いて病室まで行くのだが、昨日の今日だ。おそるおそる、いや祈る思いで受付の人に、面会が出来る状態かどうかを確認してもらう。
「大丈夫ですよ」
こんなにも希望に満ちたというか嬉しい言葉は久しぶりの様な気がした。
妻の病室へと向かうと、妻はそこにいた。
一昨日と同じような不機嫌、いや、何だろう。会った瞬間にすいませんでしたと言って帰りたくなる表情だった。
しかし、二日ぶりの妻だ。
千羽鶴ならぬ百羽鶴を取り出すと、
「私は病気なんかじゃないのに」
と非難の声。まあ想定の範囲内だったから別にいいけど、ちょっとは努力賞くらいくれてもいいんじゃないか。
しばらく義弟と二人っきりにしてやる。
私は蚊帳の外ならぬ病室の外へ行き、食堂で時間をつぶす。
四十分位して義弟がやってきて、とにかく退院したいと言っていると言ってきた。
私が行くと妻は床に土下座して、「お願いですから退院させてください、明日までここにいると私は脳死になってしまう」
さっきまで気丈に私を非難していた妻が豹変している。義弟と二人っきりにさせてしまったのがまずかったと思った。
「何でも言うことを聞きます、薬だってちゃんと飲みます、ここに入れられたことは私が悪かったからです、でもここにはこれ以上いたくない、今日退院させて欲しい。」
「いや、いきなり今日退院ってのは……」
「今日じゃなきゃ駄目、ここにいたら何をされるか、お茶の味だって変わったし」
「お茶って食堂にある給湯器のお茶?」
「そう、飲んでみてよ」
飲んでみるが、風邪を引いているのでよく分からない。
「甘くない?」
風邪なのでさっぱりわかりません。
「甘い?」と義弟に聞いてみると、少し甘いらしい。
「最初は渋かったのよ」
そりゃお茶っ葉が変わっただけだろうと思うのだが、妻はそう思わない。何か入れられていると信じているようだ。
まあ可能性は無くもないけど、あそこのお茶は患者さんだけでなく面会人だって飲むことが出来るだろう。そもそも、コップに注いでも大して飲まずに捨ててしまう人だって入るに違いない。正常な人が飲んでも大丈夫な量だったとしても、もの凄く効率の悪いやり方だ。そう思うが頭の中にとどめておく。
「先生には話してみるよ」と妻に言う。
「お願い、○さんだけじゃ不安だから、○さんのお父さんも呼んできて、お義父さんなら強面だし、先生を説得できるだろうし」
「後で電話するよ」妻には申し訳ないが電話するつもりは無かった。
「○さんだけじゃだめなの、○さんと先生を二人っきりにさせたら」
「僕だけじゃ当てにならないの?」どうやら妻は私が先生に何かされてしまうと思っているようだった。もっとも一つ一つ丁寧に聞き出すと、微妙に整合性がないので、妻の本心は分からなかった。
「弁護士でもいいから連絡して」
という妻に「保護者同意による入院だから、僕が退院させますといえば病院は退院させるしかないから僕一人で大丈夫だよ」となだめるが、妻はひたすら、「お願いだから、お願いだから。今晩はどうなるかわからない」と言い続ける。
「昨日の保護室に入れられたときにひどいことされたの?」
妻は首を振る。
「手足とかしばられたの?」
妻は首を振る。
別に乱暴なことはされなかったけれど、鉄格子の牢屋みたいなところに入れられて、妻は恐ろしかったらしい。
妻がかわいそうになる。
そりゃ、入院はさせたけれども、保護室にまで入れさせたくはない。
「入れられたのは私が悪かったのは判っているけど、一人じゃ寂しい。○さん、私を追い出したいの?」
「そんなことはないよ。追い出すつもりならばとっくに離婚届書いてるよ」
必死に退院を懇願する妻に、心が折れそうになる。義弟は退院させる方向へと傾いてしまっているようだ。
こんな状況だから途中で退院させてしまう家族が少なくないのだろう。
思い出せ、心を鬼にして入院を決意した時のことを。
しかし、しかしだ、退院など急には出来ないことはわかっている。ならば外泊はどうだろうか。
外泊許可申請を出すならば時間的に早くしないと今日の外泊は出来なくなってしまう。
先生に頼めば外泊許可を貰えるかもしれない。妻と同じく私も、妻がいないアパートが寂しく、恐ろしいのだ。
「○さんが側にいてくれた方がいい」妻が言う。
そうこうする内に面談の時間が来た。一人っきりにしないでという妻に対して義弟に付き添ってもらうようにお願いし、私は一人、主治医のいる部屋へ。
ここから先は記憶を元に書いておきたいと思った部分だけを再構成したものです。
主治医の先生の発言内容は必ずしも正確ではありません。また私がそのように誤解して理解してしまっている可能性もあります。
医者がこのような事を言うのはおかしいというご意見がありましたらご指摘いただけますとありがたいです。

いきなり、日曜日の保護室の件に対して謝ってくる。
病室でいきなり、脳死させられるとか、私は殺されてしまうとか叫びだしてしまったので、同室の患者さんが不安になり、他の病室が空いていなかったのでやむを得ず保護室を使いました。
なんか昨日の看護師さんの説明と違うよなあよと思いつつ、それに気がついたのは面談からだいぶたってからだった。どちらを疑うかということになるが、昨日説明してくれた看護師のほうを疑うべきだろう。いや疑うというよりも事務的で、説明不足すぎると考えたほうがいいかもしれない。
薬について聞くと、
「ルボックスを朝昼晩、一緒に飲ませているのは単なる胃薬です。就寝前に飲ませているのがジプレキサザイディスです」と先生が言った。
胃薬?
「彼女の性格からいって今後薬を増やさなければいけなくなったとき、数が増えると絶対飲まないでしょう。だからあらかじめ数だけ増やしておいたんです」
闇雲に薬を増やさず、そこまで計算してくれているこの先生ならば、とりあえず信用出来るのではないかと思った。
昨日思いついたアスペルガー症候群の可能性に関して質問してみる。
「幼少の頃の性格とかがわかればいいんですけど」
そこで私は彼女の比喩が通じないことや、対人関係が苦手だったことを伝える。
「大人になった場合、アスペルか統合かの判断は難しいんですよ。ただ、アスペルだった場合でも妄想はあり得ます。心理テストが出来れば判断も付きやすいんですがねえ」
「脳波じゃ判らないのですか?」
「脳波でアスペルを判断しません、てんかんとかはわかりますけど。だからはやく心理テストを行いたいのですけれども落ち着いてくれないと正しい診断ができないんです」
アスペルガー症候群や他動性傷害の可能性も否定せず聞いてくれたので、この先生は当面は信用してもいいんじゃないかと思った。
電話の許可に関しては、「電話を許可すると実家にかけるでしょう?実家の方は理解していただけていますか?」
あのときよりも理解はしてくれているだろう。しかし、長年積み重ねた経験と知識はそう簡単には曲がらない。私の前では理解している口調でも、実際は入院や薬に反対している可能性もある。特に義弟は今、妻の懇願にくじけそうになっている。
「理解していただけない状態の相手に電話を許可することは治療に大きく影響します」
「保護室に入った後、診察しましたが、私の前では猫をかぶっています。お薬もちゃんと飲むと言ってくれましたが、本心からでは無いはずです」
確かにそれは、妻の性格というよりも物忘れが激しいといったほうがいいだろう。自分で言ったことを忘れてしまうのだ。薬を飲むと言ったこともしばらくすれば忘れてしまう可能性が高い。そうなると自発的に飲むのではなく強制的に飲まされていると、再び思いこんでしまうだろう。
「退院した後が大変だと思います」
ずばり確信を疲れてしまった。
おそらく妻は病識を持たないだろうし、退院出来るくらいに具合がよくなれば、薬など飲まなくなるだろう。
「可能性は高いと思います。それはずっと考えています」
そう考えると統合失調症よりもアスペルガー症候群だった方がいいのかもしれない。もっともアスペルガー症候群における二次傷害が薬物治療を止めても再発しないと言う場合だが。
外泊に関して聞いてみる。
「外泊させたら二度と戻ってこないでしょう」
そこまでいうかと思ってしまったのは私の心の弱さかもしれない。ひょっとしたら今日は妻と一緒にアパートで過ごすことが出来るかもしれない。そんな希望を抱いていたからだ。
「義弟が話しを聞きたいそうですが」
「基本的に保護者の方を通してもらっています。直接保護者以外の方とは面談しません、治療方針がぶれてしまいますから」
まあ、先生だって人の子だ。精神科を目の敵にしているような家族に対して再度説明を繰り返すのは嫌になるに違いない。
「まだ一週間も経っていません、改善の様子が見られないことは申し訳ありませんが、ここは踏ん張りどころです」
「やっぱりそうですか。ここで退院させてしまう家族も多いんでしょうね」
「患者さんの懇願に負けて退院させてしまうご家族もいらっしゃいます。あくまで保護者の同意の上での入院ですので、退院させると言われた場合、退院させるしか出来ません。その代わり一筆書いてもらうようにしています」
「妻にはどういったらいいのでしょう」
「私が許可できませんと言ったと言ってください」
「妻は私が先生に言いくるめさせられたと思っていますが」
「つらいですよね」
「いや、私が悪人になるのはいいのですが、私を信用できなくなったことが、悪影響を……」
「病気が治れば感謝されます。薬が効いてくれれば頭の中が晴れたような状態になります。そうすれば感謝してくれます」
本当にそうなのだろうか。
「今は誰も信用出来ない状態なのです」
ああ、そうか、私だけが信用されないのではなくって、私も信用されていないにすぎないのか。
心を奮い立たせてくれる。たとえそれが私を安心させるための方便にすぎなくっても、私はその言葉でしばらくの間乗り切れそうな気がした。
「ありがとうございます」
病室へ戻ると二人は静かだった。
妻には先生の許可が下りなかったと言う。
「もう一生出られない」と言い出す妻に、「そんなことはない」と言い、義弟を連れだして帰る事にする。
帰りの車の中で、先生の面談は私を通してしか出来ないことを話す。
納得はしていないようだ。立場が違えば私だって納得しないだろう。ちょっと説明不足だったのも確かだ。しかし、入院させるという方向で話を進めて説得出来ただろうか、納得してくれただろうか。非難するならば甘んじてその非難を受け止めよう。そんなことなど妻の非難に比べれば何の苦しみもない。
「いきなり入院じゃなくって心療内科に行かせたら良かったかも」
まったくもって論理的じゃないよなあ、と思う、もっとも、風邪引いて具合が悪いので単にイライラしているだけかもしれない。こっちだって風邪ひいて具合がわるいんだよ、さっき風邪ひいているって言っただろ、目の前で薬を飲んだだろ。ちょっとは空気読めよと言いたくなるのはやはり気分が悪いせいだろう。
「病院は三軒行きました、他にも相談に乗ってもらいました。本も読みました、いろいろ調べました」
「でも実家に帰っていたときはおかしなこと言っていなかったのに」
「そりゃ、そうでしょう。本人にとっての元凶から離れたんですから少しは良くなります」
「車だって運転できるし」
「統合失調症の場合だって、車も運転できます、ひどくなければの場合ですが。声が聞こえるって言っていませんでした?鍋の蓋を首の後ろに当てていませんでした?」
「薬は対処療法だから原因を突き止めないと」
「原因なんていろいろなものが重なったからそうなっただけです」
気分が悪いのでイライラしてくる。
ナイフで手を切って出血多量で死にそうな人間に、原因はナイフだったからナイフを遠ざけました、なんて悠長なことするのかお前は。血を止めるのが先決だろ。と頭の中で怒鳴る。口に出さないだけの自制心は残っているようだ。
「本人が自分で病院を探して行きたかったかも」
「この病気は病識がないのでそれは無理です」
「右手の人差し指が痛くなりました。病院へ行くと、あなたに右手なんてありませんですよと言われました。他人から見れば右手は無いんです。そんな状態なんです。先生にそう言われても、実際に右手は無くっても、右手の人差し指は痛いままです。本人は辛いんですけど気づけないでいるんです。周りの人間が動かなくっちゃ駄目なんですよ。統合失調症について調べてみました?」
「いや、自律神経の方を調べていたんです」
「自律神経の症状でで幻聴はありましたか?」
「うーん……、今の医学だとそうなってしまうんでしょうねえ」
「だったら、何を信じますか、神様ですか、得体の知れない新興宗教ですか?」
私だって全てを納得しているわけではない。今日の先生の話だって、相手は説得のプロだ。うまいこと言い含められてしまっている可能性だってある。でも、とりあえず一ヶ月間だ。もう少し延びる気配はするが、一ヶ月の我慢だ。それに退院の日まで何もせずぼんやり過ごすわけではない。この病気に対してもっと勉強すればいい。
駅に着き、義弟を送り出す。風邪をひいて具合が悪くなかったなら夕飯でも一緒に食べたかったのだが申し訳ない。
アパートに帰り着き、孤独感におそわれる。
私だって今日、妻と一緒にこの部屋に帰りたかったのだ。
熱を計ると37.6度。ちょっとまずい。
妻は今晩、どう過ごすのだろうか、何事もなければいいのだが、なにかあるかもしれない。
夜になって妻の実家から電話がある。
やはり先生と直接話ができなかったのがくすぶっているのだ。それはよくわかるがうんざりしてくる。
「やっぱりおかしいわよそこの病院」と義母がいう。
どこがおかしいのだろうか。さっぱりわからない。
薬漬けっていうけれども薬は二種類だけだし、副作用らしいものは出ていない。
「○さんも頭おかしくなっていない?」
そりゃおかしいかもしれないよ、と心で叫ぶ。おかしいならば病院でもどこでも入れてくれよ、私の方がおかしいんならばそれはそれで楽になるから。
今だって入院させたことに疑心暗鬼だ。
電話は義弟に変わる。
何を言っても「でも……」を言い続ける義弟に畳みかける。
「今の治療法よりもいい方法が見つかったら教えてください。それだったらそちらの治療を行います。でもそれが見つかるのはいつですか。でも、と言いますけれども、40度の熱が出たとき、風邪かもしれない、インフルエンザかもしれない、どっちの治療を優先させますか?」
「でも……」
「他に良い治療法があるかもしてないっていってその間、何もせずほっといて人の命をもてあそぶんですか?」
うんざりしてきた。
「風邪ひいて具合があまり良くないので、きついこと言ってすみません」
はやく電話を切りたかった。
こんな押し問答していたら自分の考えだってぶれてきてしまうよ。先生の言ったことがよく分かった。
賽は投げてしまったのだ。一ヶ月、先生の言った一ヶ月はぐっと我慢するしかない。リスクの無い賭けなどありはしない。
そりゃ、自分の考えも先生の治療法も間違っているかもしれない。でも、あのとき、サインをしたとき、自分の判断が妻を救うことになるのだと判断し決断したのだ。夫婦とはそういうものではないのだろうか。

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