体調は昨日よりも良い。
食パンとコーヒーといういつもと全く同じ朝食を食べ、洗濯をする。妻に持っていく物を鞄に詰め、アパートを出かかるときにはもう十一時をすぎている。
運転中に妻の実家より電話がかかる。
近くのコンビニで車を止め、かけ直す。
義母は知り合いの看護師にいろいろと聞いたらしく、病院や医師はやたらと変えない方が良いということで退院するまでは転院する事はしない事にしたようだ。少しずつだが、良い方向へ向かっている気がする。
長電話をするつもりは無かったのだが、このまま病院へ行くと、途中で昼食時にさしかかってしまうので、近くの書店で時間をつぶす。
昼食が終わっただろう頃を見計らって面会票を持って病室へ。
病室へと向かうと廊下の向こうからうつむき加減で妻が歩いてくる。
思わず嬉しくなって、にこにこしながら声をかけると、
「嬉しそうでいいわね」ときつい一言。
やっぱり昨日は昨日だったんだと少しがっかりしながらも、妻と一緒に病室へ。
差し入れのジュースやパンを差し出すと嬉しそうに受け取り、パンを食べはじめる。昼飯を食べたはずなのだが、ちょっとおかしい。病院食は美味しくないのか聞くと、やはりあまり美味しくはないようだ。
「無味無臭の毒ってある?」と妻が聞いてくる。
どうも、食事に毒を盛られていると思いこんでいるみたいだ。
「無味無臭ってのは無いよ」と嘘をつく。
「農薬とかって無味無臭じゃないの?」
「農薬は間違って飲まないようにわざと味や匂いがつけられているんだよ」本当かどうか判らないけど、ごまかす。
「それに普通の人には簡単に毒なんて手に入らないよ」
これで妻が納得してくれたかどうかはわからない。
「君のお母さんから電話があって、僕の言うことをしっかり聞くようにって」と言ったのが失敗だった。
妻は嫉妬したらしい。
「みんなあなたのことを誉める。そんなにいい子ぶって楽しいの」
「こんな事だったら通院して薬を飲んでいたほうがましだったわ」
「私はあなたにここに入れられてしまったのよ。私が退院したらこの恩は必ず返すから覚えていてよ」
妻が私に返してくれる恩というのがあまり良いものではないことぐらい想像がつく。
妻をここまで苦しめることとなった自分の判断はやはり間違っていたのだろうか。
私の下した決断に対して、私自身がこのさき一生苦しむことになるのは別に構わない。しかし、妻がこのさき一生、私のことを憎み続けて欲しくはない。相手が私で無かったとしても誰かを憎み続けて生きる一生など送っては欲しくない。妻は入院する前、アパートの階下の人たちを憎んでいた。私は妻が、誰かを憎み続ける日々を送っては欲しくなかった。だから入院させたのだ。
しかし、結局、憎しみの対象を変えただけにすぎなかったのかもしれない。
「ところで、あなたのお父さんの知り合いに調べてもらった件はどうなの」
すっかり忘れてしまっていると思った。
妻を病院に連れて行くための方便として、父の知り合いの公安の人に、階下の人たちを調べてもらっていると嘘をついたのだ。
もちろん父にはそんなことは頼んでいない。
「うん、昨日実家に言ったときに連絡があって、結局普通の人だったって」
「そう……初犯か」
妻の妄想は根強い。幻聴は消えても妄想は無理なんじゃないか、認知のゆがみがひどすぎるような気もする。でも焦ってはいけない。
支離滅裂になりつつも怒り続けている妻に対して久しぶりに怒りがこみ上げてきた。
「毎週、火曜日と木曜日には必ず来てよ、これはあなたの義務よ、風邪引いていようが血を吐いていようが」
もう二度と来てやるもんか。
そんな言葉が口から出そうになる。言ってしまうのは簡単だ。しかし必死で我慢する。
「じゃあ今日はこれで帰るよ」この言葉を言えば妻はおそらく引き留めようとするだろうと思った。
「ちょっと……」
予想は当たった。
腰を下ろす。言いたいことを言わせてあげよう。
しばらく罵倒が続いていたが、徐々におとなしくなる。一通りたまっていた物を吐き出してしまったせいか、落ち着いてくれた。
妻もそのことを少しは理解したらしい。
その後は穏やかな会話になった。
退院したら、伊勢神宮に行きたいだの、こってりとした野菜たっぷりのラーメンを食べたいだの、面会時間は基本、一時間ということを気にしてか早口にまくし立てる。話し相手が欲しいのだ。
「ここは一日中テレビの音が大きくてうるさいのよ」
この間の面談の時、主治医が、ティッシュを耳に詰めているでしょう、まだ何か音が聞こえているのです。といった言葉を思い出した。おそらく先生は間違っている。妻は幻聴がうるさいのでティッシュを耳に詰めているのではなく、現実の音がうるさいのでティッシュを耳に詰めていたのだ。
一日中する事がなくって暇だという妻に、日記を書いてみたらと言ってみる。
妻はちょっと乗り気だ。
次の面会の時にはノートとペンを持ってきてやろう。
声は聞こえないと言っているが、まだ被害妄想は残っている。もう少し気長に待つしかないのだろう。
のどの渇きと手のしびれくらいで、他には目立った副作用はなさそうだった。
そろそろ帰ると言って立ち上がると、「怒って悪かったわね」と妻は謝ってくれた。
今日は昨日よりも良い日になった。
明日は面会には行かないが、明後日は今日より良い日になりますように。
経過報告30
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