人の意識

人の意識とは何なのだろうと思う。
SFの世界では意識の問題を扱った小説がある。グレッグ・イーガンはこの問題をよく扱う。
妻が病気になるまでは、小説として楽しみ、愚考して楽しんでいたのだが、妻が病気になってからは、この意識という問題は身近な問題となってしまった。
存在しない音が聞こえる。
しゃべってもいないはずなのに声が聞こえる。
その声は自分のことをしゃべっている。
それだけならまだましだ。
隣にいる見知らぬ誰かが、私のことをしゃべっている。
なぜ、この人は私のことを知っているのだろうか。
怖くなってその人から離れる。
見えなくなるまで離れる。
まだ、声が聞こえる。
その人の姿は何処にも見えない。
なぜ、声が聞こえるのだろう。
いとも簡単に、脳は誤作動を起こしてしまうのだ。
この時点で自分自身がおかしいという認識は非常に困難なこととなる。
イーガンの「スティーヴ・フィーヴァー」のように、意識を変容させるナノマシンがあるならば、妻の病気も治すことができるのかもしれないが、そんなものはまだない。
しかし、仮に、そのような治療方法があったとして、わたしはそれを受けさせるのだろうか。
それによって意識が変わってしまった妻は、妻なのだろうか。
妻が毎日飲んでいる薬は、ドーパミンやセロトニンなどの脳内神経伝達物質の働きを抑える作用がある。
この薬を飲むと、楽しいという気持ちも悲しいという気持ちも一定以上で止まってしまうの。と、妻は言う。
自分自身で感情を自由に選択できないだけで、ある意味、グレッグ・イーガンの「しあわせの理由」だ。
感情をコントロールされてしまう。
感情を抑えられていて、それは自分らしいといえるのだろうか。
この状態で、好きになったものは、本当に好きなものなのだろうか。
私の中では答えは出ているのだが、だからといって妻も同じ答えになるとはいえないし、そのように考えろともいうことはできない。
医者でもない私がいくら考えたところで、どうしようもないことでもあるのだが、でも考えざるを得ない。

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