妻が病気になってから一年と半年近くが経った。
あの当時と比べればだいぶ穏やかな日常生活になった。いや、だいぶ日常生活を取り戻したといった方がいいか。なにしろあの当時は日常生活など無きに等しかったからだ。
時に、楽しむこともできるようになった。
でも、同時に楽しむことに対しての罪悪感もつきまとう。妻が苦しんでいるのに自分は楽しんでいてもいいのだろうかと。
いくら年数が経とうとも、いくら努力しようとも取り戻せないものはいくつかある。おそらく、楽しむということに対して、楽しんでしまったということに対しての罪悪感を無くすことはできないだろう。
でも、取り戻すことが出来ないことは別に構わないし、出来ないことを悔やむことはない。
闘病生活が数十年続くと考えると気が滅入ってしまう。だから闘病生活から日常生活へと切り替えるようにしてきた。支える側が倒れてしまったら共倒れになってしまう。倒れてしまわないためには日常生活を送るようにするしかない。だから、時に楽しむ。いや、楽しむことが出来るときには我慢せず楽しむようにしている。罪悪感を伴いながらも。
長い期間、支えなければならないということは、それを行い続けていく上で、時に罪悪感に苛まれることもしなければならない。
こうの史代の『夕凪の街桜の国』の主人公は、せっかく原爆の被爆から生き延びたのに、生き延びたことに負い目を感じる続ける。主人公の気持ちがよくわかる。
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