ムーミンシリーズに登場するキャラクターそれぞれに焦点を当てた短編集なのだが、必ずしも主要キャラクターに焦点が当たっているわけではない。なのでいつものムーミンシリーズだと思って読むとかなりがっかりするだろう。
最初の話はスナフキンが主役で、長年暖めていた歌がいよいよ完成間近となったところで邪魔が入る話、と書くとなんだかまともな話に見えるのだが、実際に読んでみると詩作という事に関する含蓄のある展開、誰かに憧れるということは自由から離れてしまうという、いかにもスナフキンらしい考え、名前を持つことによって初めて自己というものを認識するという話で、一筋縄ではいかない。
空想ごっこに明け暮れるホムサが次第に空想と現実の境界が曖昧になってしまい、家を飛び出す「ぞっとする話」では、ホムサってそもそもムーミンシリーズに登場していたのかって疑問に思うのだけれども、それはさておき、ムーミンシリーズでもっともひねくれているミイに出合うことで彼はようやく現実を取り戻す。ミイは揺るぎない自己を確立しているからこそ、しっかりと現実を見据えてそして、いつでもひねくれていることができるのだ。
「この世の終わりにおびえるフィリフヨンカ」は、ムーミンシリーズでは意外と登場回数の多いフィリフヨンカが主役。しかしこれは子供向けの話なのかと作者に問いつめたくなるような内容だ。でもこれでもまだましな方だ。
ムーミンパパがある日突然、今ある日常生活に我慢ができなくなってぶらりと蒸発してしまう「ニョロニョロのひみつ」では、ムーミンパパがニョロニョロに憧れてしまい、何とかコミュニケーションをとれないものかとニョロニョロと行動を共にし、船に乗り、たどり着いた島に上陸し、そして最後にニョロニョロの秘密の一部を知り得ることができたけれども、最後までコミュニケーションらしいコミュニケーションは取ることが出来ず、結局は不可知の存在であることを再認識するのだ。なんだかスタニスワフ・レムが書いてもおかしくない話だ。
特に、物語早々、ムーミンパパが失踪した後での作者の文章がすさまじい。
ムーミンママがあとになっていうには、
「あの人はしばらくまえから、どこかへんだったのよ」
ということでした。でもおそらくパパは、いつもよりもよけいへんだったわけではなかったでしょうね。
そんなママのいいぐさは、自分の当惑やかなしみや、なぐさめほしさで考えをまぎらすために、あとから考えついた説明にすぎないのじゃないかしら。
とてもじゃないが、子供向けに書かれた内容とは思えない。
もっとも、全編こんな話ばかりではない。
ムーミントロールが小さな竜を捕まえる話では、ムーミントロールが一生懸命に竜と仲良くしようとするが、何故か竜はスナフキンになついてしまう。悲しむムーミントロールのためにスナフキンは、気付かれないように竜をどこか遠くへ離してやり、ムーミントロールに、竜は気まぐれだから何処かへ行ってしまったと言う。なんだかんだ言ってスナフキンは、自由人でありながらも人一倍、人間関係に気配りしているのだ。
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