「グーグル八分」という言葉がある。
「村八分」からきた言葉だが、グーグルの検閲によって何らかの理由で検索されない状態になったことを指し示す。しかし「村八分」は葬式と火事の時は除外されるのに対して、「グーグル八分」の場合はそのサイトが改心した時のみしか許されないので「グーグル八分」より「グーグル九分」と言った方がいいのかもしれないが、それはさておいて、グーグルで検索しても表示されないサイトは存在しないも同然という情況には変わりはない。
書籍の世界になると、同様なことがamazonにおいて発生する。amazonで検索しても表示されない書籍は存在しないに近い情況なのだ。
現時点で、講談社文庫版のザミャーチンの『われら』はamazonで検索しても見つからない。表示されるのは同じ講談社の<海外秀作>シリーズの方のだけなのだ。
僕が持っているのはこの講談社文庫版の『われら』で、この本を買ったのは、地元の小さな個人経営の本屋さんで、忘れもしない1982年の2月のことだった。
しかし、買ったときのことは克明に覚えていながらもどんな話なのかは覚えていない。買ったまま読んでいないのだから当たり前だ。
いつものごとく僕の悪い癖で、買ったことで安心してしまって読む気力が消えてしまったせいなのだ。
それと同時に、「アンチ・ユートピア物」があまり好きではないというのも大きな要因をしめていて、その証拠にオーウェルの『1984』もハックスリィの『すばらしい新世界』も読んでいない。こちらは買ってもいない。
なぜ嫌いなのかといえばたぶん、救いのない陰鬱さが嫌いな原因なんだろうなと思うけれども、同じくらいに救いのない陰鬱さ満載の「破滅物」の方は大好きなのは何故なんだろう。
そうこうしているうちに、30年もの月日が経ってしまい、肝心の本も、本の山に埋もれてしまい何処にあるのかもわからない状態になり、amazonで検索しても出てこないので、僕が手に入れた本は正規の本ではなく誰かが自費出版した、一般流通していない本だったんじゃないかと妄想することもちょっとはあったけれども、どちらにしても未読なことには変わりがない。
で、いつか読もうと思っていたら岩波文庫で復刊したのでようやく読むことにした次第である。
読んでみると、想像したとおりの内容であり、同時に想像したのとは全く異なる文章だった。「アンチ・ユートピア物」でもあると同時に「ファム・ファタール物」でもあったのは意外だったけれども、1920年のソビエト時代にこんなあからさまな話を書いて出版しようとしたというのは、ただただ恐れ入るばかりだ。
しかし、物語の中で主人公が思い悩むのはわずかながらにも自己の感情が存在していたからで、物語の終盤、技術革新によって人々の中から<われ>が無くなり、完全なる<われら>になろうとする社会において、苦しみから解放された主人公はある意味、幸せなのだろう。
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