前回から続く
母のことについて書くのはこれで最後とする。
ここまで読んだ人は気づいたかもしれない。
僕は母の死を悲しんでいない。
それどころか僕は母を恨み続けているし、今も憎しみ続けている。
物語などで、親を憎しんでいた子が、親の死をきっかけに親のことを理解し、憎しみが取り除かれるという話があるが、あれは物語だからだ。現実はそんなに単純ではない。
最初の連絡があったとき、すぐに駆けつけなかったのは、死に目にあえなくてもかまわなかったからだし、母がこん睡状態になったときは、心電図のモニターを見つめ、とっとと心臓が止ればいいと思った。未だに線香も一本も上げていない。成り行きで最後の花を棺に入れることになったが、別に入れたかったわけではない。皮肉なもんだなと思っただけだ。
火葬場での最後のお別れのときも一番後ろで立っていただけで、まともに顔も見ていない。拾骨をひと一倍やったのは、てきぱきとやって早く終わらせたかっただけだ。
それだけ憎んでいながら今回の葬儀を人一倍やったのは、妻のためと、これだけ一生懸命やったのだから、この先ずっと憎しみ続けても誰にも文句を言わせさせないためだ。ある意味、敵対関係は礼儀を重んじさせる。
ただ、人の感情というのは好きとか嫌いとかで単純に分かれるものではなく、僕の中にも母に対する愛情というものは存在する。母に暴力を振るったことなどないし、あくまで僕の心の中の問題で、僕と母の関係は複雑な愛憎関係であり、我ながらつくづく生き方が下手だと思う。
表面的には親孝行な息子という状態だったが、それはあくまで表面的な行動で、僕の行動に母に対する愛情などは存在しなかった。
たぶん母も薄々と感じ取っていたのだろう。いつからか僕のことを理想的な息子と思うようになりそのことを口に出し始めた。母は口に出し、そう信じることで現実から逃れようとしていたのかもしれない。
僕は意識せずとも母を苦しめていたわけでお互い様だったかもしれず、そう思うと僕自身の気も少しは晴れるというものだ。
しかし、死というのはあまりにも巨大な力だ。
人を憎しむということは多大なエネルギーの要ることで、生きているからこそできることだ。
生きていることを主張しあうから憎しみが生まれる。
骨となった母を見て、少しだけ母に対する憎しみが消えている気がした。
母に訪れた死は、たぶん僕の命も少しだけ奪い取っていったのだろう。
だから少しだけ憎しみが消えたのだ。ほんの少しだけだが。
僕の中で母はまだ生き続けている。
やがて、それも次第に薄れていくことだろう。
憎しみも引き連れていつかは消えていくのだ。
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