ある物語で登場した人物が、その物語の途中もしくは結末までに亡くなってしまうということは珍しくない。
が、その後に書かれた物語でその人物が再登場するというケースとなると作品数がかなり減ってくる。
コナン・ドイルのシャーロック・ホームズの場合は、作者がホームズシリーズを書き続けることを止めたいがために「最後の事件」の中でホームズを殺してしまったのだが、読者の強い要望で再開せざるをえなくなり、実は死んでいなかったとして、続きを書いた。
ホームズの場合は作中で明確な死を描いていなかったので、実は死んでいなかったという手を使うことができたののだが、死んだことを明確に描いていた場合、再登場させるとなると時系列を過去に移し生前の物語として描くこととなる。
ロバート・A・ハインラインは「鎮魂歌」という短編でD・D・ハリマンという人物を登場させ最後に死なせているが、その後「月を売った男」という短編でハリマンの若い頃の話を書いている。
T・S・ストリブリングの場合は、ポジオリ教授という人物を探偵役とした短編集『カリブ諸島の手がかり』の中で最後に彼を殺してしまったが、その後も何の説明もなしにポジオリ教授を登場させ何篇もの短編を書いた。
歌野晶午は『長い家の殺人』『白い家の殺人』『動く家の殺人』と、信濃譲二という探偵が活躍するミステリを書いたが、最後の『動く家の殺人』で彼を死なせてしまった。しかしその後、生前の話として一冊の短編集を発表している。
歌野晶午と同様、新本格派の一人である麻耶雄嵩はデビュー作の『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』の中でメルカトル鮎という探偵を殺してしまっているが、その後、彼がまだ死ぬ前の昔の話という形でメルカトル鮎が活躍する物語をいくつも書いている。
探せばまだあるかもしれないが、いずれにしても再登場させられるのは物語の主役である。
しかし、中山七里の場合はちょっと異質だ。
物語の序盤で殺されてしまう被害者を再登場させている。で、今度は探偵役としてだ。
そして安楽椅子探偵ならぬ車椅子探偵、しかも要介護状態の人物という二重三重にひねくれた設定だ。
ミステリとしての出来は水準程度だが、やはりなんといってもそれまでの痛快探偵物語だったものを最後の話で一気に反転させて『さよならドビュッシー』につながる悲しみに転じさせている部分がうまいところだろう。
コメント
はじめまして。
同時期に同じ本を読んだ方がいると思ったら
前奏曲と書いてあってしかも車椅子探偵、
遙の祖父のことですよね。
私が借りてきた本は題名が「要介護探偵の事件簿」
表紙絵も車椅子に乗ったおじいさんがみちこさんから
のがれようとしている絵です。
「さよならドビュッシー」と一緒に借りてきたのですが
繋がりがあるとは知らなかったので「さよならドビュッシー」を
読み始めたとき「ん、んん?」と思ってパラ見しちゃいました。
ラストが繋がるところといい、こちらの本と中身は同じようです。
でもこちらの方が、装丁も「さよならドビュッシー」と繋がっていることを
予感させて良いように思います。
まだ未読ですがあのおじいちゃんですからね。
痛快というのも頷ける気がします。
ふっくらしこさん、はじめまして。
もともとは『要介護探偵の事件簿』という題名で出版されたのですが、文庫化にあたって、今回の題名に変わりました。
なので、内容は一緒です。
どちらの方を先に読んだ方がいいかといえば、やはり『さよならドビュッシー』の方を先に読んだ方が楽しめると思います。