命の火が消えていこうとする状況を見守り続けるというのは何度経験しても慣れるということはない。
それがたとえ重さ90グラム程度の小さな生き物であったとしてもだ。
生活を共にしていたハムスターが息を引き取った。
二年前にケージから脱走したことのあったハムスターだ。
彼女は1年と10ヶ月、ゴールデン・ハムスターとしては短命だった。
彼女という言葉を使うのは少し擬人化しすぎているんじゃないかと自分でもそう思うのだが、他に使うことができる言葉が見当たらない。もちろん名前は付けていたのだが、それは僕と妻が彼女に対して話しかけるための名前であって、この文章は彼女に語りかけるために書いた文章ではない。だからここではその名前は使いたくはないのだ。
短命だったのはひとえに僕の責任だ。下の歯が伸びていることと、ひまわりの種を食べなくなったことを結びつけて考えずに、ひまわりの種を食べなくなったのは老化が進んだせいだと思い込んでいたせいである。
先月の終わりごろ様態が怪しくなり、病院に連れて行ったときには伸びすぎた歯が鼻を圧迫し呼吸が困難な状況になっていた。
もっと早く歯を削ってもらいに行っていたならば今でもまだ元気だったのかもしれない。
歯を削り、抗生物質を注射してもらったのだが助かるかどうかは微妙なところで、体力をつけさせるためには強制給餌をしてでも食事をさせる必要があった。
が、そもそも意思の疎通など出来ない人間とハムスターの関係である。強制給餌は難しかった。
背中から首の皮をつかみ仰向けにさせ、スポイトで液状の栄養食を少しずつ口の中に入れてあげる。最初の数滴は飲み込むのだが、そのうち嫌がり、小さな手を動かして口元にあるスポイトの先をどけようとするのだ。
おまけにハムスターはめったに鳴かないのだが、こういうときに限って悲しそうに鳴く。
そのうちに、手を差し伸べようとするだけで、ビクッと驚き、逃げるようにして鳴きはじめた。
ここまで怯えさせて、それでも延命をさせるのが正しいののだろうか。
もちろん答えなど出ないのだが、悩んだ末に延命ではなくQOL、つまり今ある生活の向上の方を選ぶことにした。
すぐそばに小皿を置きその中に栄養食を入れておいて、いつでも飲むことが出来るようにして見守ることにしたのだ。
怯えから開放されて安心することが出来たおかげか、一時は回し車を回すくらいに元気になったのだが、それは一時的なもので、次第にやせ細り倒れるように寝ている時間が多くなっていった。
しかし、体を動かす体力もほとんど残っていないながらも、日常生活の中で染み付いた習性というものは生きるということと密接に結びついているらしく、おしっこの時になると彼女は寝床にしているケージの二階からパイプを伝わり降りて、一階部分に接続された砂場にたどりつき、そこでおしっこをして再びパイプを上り、二階の寝床に戻るという日常生活を最後まで行っていた。
そして僕の見た、彼女が起きている最後の姿は、夜に妻が小さく切ってあげたカボチャの小片を小さな手で抱えてしゃぶっている姿だった。
朝になって覗くと彼女は眠っていた。動く体力もほとんど残っていないはずなのに砂場にはおしっこをした後が残っていた。
彼女は最後まで日常の生活を続けようとしていたのだった。
そのことを思うと、無理にでも強制給餌を続けるべきだったんじゃないかと少し後悔している。
いつでも僕は、少しだけ間違った決断をしてしまうのだ。
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