『酒国―特捜検事丁鈎児の冒険』莫言

  • 訳: 藤井 省三
  • 著: 莫 言
  • 販売元/出版社: 岩波書店
  • 発売日: 1996/10/25

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中国の食文化を語るときに出る言葉に「二本足なら両親以外、四本足なら机以外、走るものなら自動車以外、飛ぶ物なら飛行機以外、水中の物は潜水艦以外なんでも食べる」という言葉がある。
潜水艦という言葉が含まれているのでそれほど古くから語り継がれてきた言葉ではないような気もするけれども、二本足と四本足の部分だけ古くから語り継がれ、後世になって後の部分が継ぎ足されたのかもしれない。
一方で、『西遊記』の中に人参果とういう食べ物が登場する。生まれたての赤ん坊のような形をした木になる実のことで、作中ではこの実のにおいをかぐだけで、三百六十歳まで、実を食べれば、四万七千年生きられると語られる。
二本足なら両親以外とあるように、赤ん坊は食のタブーの範囲に入らないのである、というのは勝手なこじつけだが、莫言の『酒国』では嬰児を料理して食べているという事件を捜査する話しである。
しかし、翻訳されるにあたって付加された副題、「特捜検事丁鈎児の冒険」という言葉から想像する物語とは大きく異なっている。
全部で十章に分かれたこの長編、それぞれの章は、さらに四つのパートに分かれる。
一つ目は莫言が書いている「酒国」という長編の一部。これが副題にもある丁鈎児による嬰児料理事件の捜査の物語だ。二つ目は、酒国という街の大学で酒の研究をしている学院生李一斗が莫言に宛てた手紙。李一斗は勝手に莫言を師と仰ぎ、自分の書いた小説を莫言に送りつける。三つ目は、李一斗からの手紙に対して丁寧に対応する莫言の返事の手紙。そして最後は李一斗が莫言に送りつけた小説。
莫言が書いている「酒国」、そして李一斗が書いている小説、この二つは一見すると無関係にも見えるのだけれども、というか普通ならばまったく無関係なのだが、莫言の「酒国」が嬰児を料理して食べるという出来事を扱っているのと同様に、李一斗が書いてくる小説にも両親が自分の子供を、人では無いものとして売る話や、赤ん坊をいかにしておいしく料理するかという講義の話など、莫言と李一斗の小説は奇妙な形で関連しあう。さらには李一斗はあくまで自分の想像の物語であると言い切りながらも、彼の物語は実際の酒国の地で現実に起こっている事実を元に創作されたものであるという印象を与えるため、莫言が書いている「酒国」は次第におかしな方向へと進んでいくのだ。
それは現実が虚構に浸触されるのではなく、虚構が現実に浸触されていくという通常とは逆の様相を見せ始めると見ることもできる。
最終章に至って、事態は収束をみせようとするのだけれども、そこで語られる事態は読み手が期待するようなものではまったくなく、却って余計に混乱し、読者をさらに酩酊状態にさせるかのような形であり、酒国という迷宮はさらに混沌としたまま、読者はその場所に放り出されたままで終わるのだ。
そういう意味では、物語の中では虚構が現実に浸触されるが、物語と読者という関係においては現実という立場の読者は物語という虚構に浸触されるのである。

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