「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います。」
これは北村薫が過去に書いた文章だ。
長いこと僕はこの文章を「小説が書かれ読まれるのは」ではなく「小説が読まれるのは」と「書かれ」を省いた形で記憶していた。さらにはこの言葉がどの文章の中で書かれた文章だったのかも忘れてしまっていた。
この本を読んでこの文章が、北村薫のデビュー作である『空飛ぶ馬』の著者のことばとして書かれた文章の最初の文章だったことを改めて知ったと同時に、「小説が読まれるのは」ではなく「小説が書かれ読まれるのは」であったことに驚いた。
ブログを長いこと書いていると、過去に書いた記事の内容を忘れてしまうことが多い。
過去に北村薫のこの文章を引用した記憶があったのだけれども、その時に「書かれ」を付けて正確な引用をしていたのかそれとも、あいまいな形で書いたのかどうにも思い出せなかった。
実際のところは正確に引用していたので、つまるところ、自分の記憶力の衰えを実感させられただけに過ぎないのだが、記憶は衰えても、こうして書かれた文章は消されない限り残り続ける。
それにしてもこの本を読むと、北村薫という人はうっかりと信用出来ない人だなあと思わせられるのだ。
谷崎潤一郎の「途上」という小説に関して書かれた文章がある。
「途上」という小説はいわゆるプロバビリティーの犯罪、明確な殺意をもって人を殺そうとするけれども、その手段は確実に人を殺すものではなく、死ぬ確率が高くなるだけの仕掛けを用いて被害者が運が悪ければ死んでしまうようにする犯罪行為を扱った小説なのだが、この中で北村薫はある人がこの小説をそのようには読み取らず、別の読み方をしているのを紹介している。
僕は生憎と「途上」を読んでいないのだが、北村薫が紹介しているような読み方ができるのであれば、読んでみたいなと思ってしまった。
ただ、普通に読むとこのような読み方は出来ないらしい。でも北村薫はこれを誤読だとして非難はしない。
小説というものは作者が書いた時点では設計図もしくは楽譜のようなもので、読者に読まれることによって初めて完成されるのだと言うのだ。だから読者がどのように読み取っても構わないのだと。
北村薫の恐ろしいところは、彼の文章を読むとそれが正しいと感じてしまうところなのだ。
そしてその恐ろしさを確実に実感させた一番の衝撃は、この本のあとがきにあった。
北村薫はいままで何食わぬ顔をして、自分の考えに過ぎないことをあたかも世間一般の常識として定説化させようとしていたのだ。
もっともだからといって北村薫が本当に恐ろしいかというとそうでもなく、北村薫にだったら騙されてもいいかという気もする。
『読まずにはいられない』北村薫

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