1963年から2012年までの五十年間を対象としてそれぞれの年で一遍の短編を選び、全部で五十編の作品を五冊に分けて収録するというアンソロジーの第一巻。
1970年移行であれば星雲賞短編部門の受賞作を収録すれば事足りるけれども、あくまで、現時点で日本SF作家クラブの会員を対象として、なおかつ一作家一遍、つまり一度収録された作家はそれ移行の年は対象外となるという制約があるとなるとこれはけっこう、パズル的な作品選択になる上に、おそらく出版芸術社の日本SF全集に収録される作品は暗黙の了解的に収録対象外にするだろうことも考えると結構、作品選択が難しいだろうと思う。
この制約の中でもし僕が選ぶとするのであればどんな作品を選ぶだろうかということを考えるのは楽しそうなことなんだけれども、まあそれは暇な時間ができたらということにしておいて、第一巻の収録作品をみてみると、わりと未読が多いことに気がつく。
それというのも、星新一と小松左京と筒井康隆は例外として昔は短編嫌いで長編しか読まなかったというのもあるけれども、ハヤカワJAから出ていた本はわりと入手が困難というか地方の書店では売っていない場合が多かったというせいも多分にある。
まあ、そのおかげで今になってあらためて新鮮な感覚でこれらの作品を読むことができるのだから悪いことばかりでもない。といっても、既読の作品であってもどんな内容だったのかすっかり忘れていたりするので、どっちでも構わないといえば構わないともいえる。
しかし、既読か未読かの判断がつく場合はまだましで半村良の「およね平吉時穴道行」となると未読か既読か定かではない。時間物は好きだったので読んでいてもおかしくはないのだが、しかし、どんな話だったのか思い出そうとするとさっぱり思い出せない。とはいえそんなことをうだうだと考えているくらいならば読んでしまったほうが手っ取り早いわけで読み始めると、山東京伝の話で始まり、ちょっとまてよ、こんな導入部だったのかと、びっくりさせられたと同時にやっぱり未読だったなと実感したのだが、それにしても半村良はお話の持って行き方がうまいなあと思うのだった。これと比べると、豊田有恒の「退魔戦記」は似たような導入をしながらもちょっと分が悪い。順番的に「退魔戦記」の方が先に配置されているのでまだよかったが、後だったら「退魔戦記」の評価が一段階下がったかもしれない。
と、こんな感じで書き終えたところで、瀬名秀明が日本SF作家クラブの会長を任期半ばにして辞任、さらには日本SF作家クラブも退会するという出来事が起こった。少し前に、瀬名秀明が日本SF作家クラブに関して書いた文章もちょっと衝撃的な内容で、いったい何があったのか、気になっていたのだが、まさかこんな事が起こるとは思いもよらなかった。
ついでに書いておくと、古いSFファンからすると、早川書房でこういったアンソロジーを出すとなった時に頭によぎるのが太陽風交点事件で、堀明と小松左京、特に小松左京に関しては小松左京が亡くなった時でもSFマガジン上で単独の追悼特集が行われなかったということも含めて、いろいろと思うところがあるのだけれども、今回のアンソロジーに関していえば、瀬名秀明の序文や編者の一人である日下三蔵氏のこちらでも発言にもあるように、過去のしがらみとは無縁のアンソロジーとなっている。
対人関係の憎悪というのは個人的な感情であり、他人がどうこうできるものでもないし他者が口出しできるものでもなく、そう簡単に解決できるものでもないのだけれども、それでもこのようなアンソロジーを作ることができたということは大きな一歩だと思っていただけに、瀬名秀明の辞任と退会は残念に思うのだ。
コメント