古典的なディストピア物というと、エヴゲーニイ・ザミャーチンの『われら』、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』、そしてジョージ・オーウェルの『1984年』の三つが有名なところだろうし、とりあえずこの三作品を抑えておけば十分な気もする。
で、この間ザミャーチンの『われら』をようやく読み終えて、一冊はクリアした。そして今度はハクスリーの『すばらしい新世界』が光文社から新訳として出たのでやはりこれはこの機会に読んでおかなければいけない義務感にかられる。
『すばらしい新世界』における世界の基本設定は、ディストピア物につきものの基本的な条件をやはり備えているのだが、さらにはその世界に住む人々がこの世界の有り様になんの不満も抱いていない点が他のディストピアものと異なっている点だろう。もちろん、物語の中盤付近で、この世界の有り様に不満を持つ人物が登場するのだが、彼は外の世界から訪れたジョンという名の人物で、この新世界で生まれ育った人物ではないのだ。
自動車で有名な自動車王フォードが救世主としてあがめられていながらも、かならずしもフォード一族が世界を牛耳っているわけではなく、この世界の人々は受精卵の段階で労働者階級から指導者階級までの五段階のいずれかに選別され、肉体、知能もそれぞれの階級に応じた形でデザインされて生まれてくる。
さて、この世界をどう受け止めるのかといえば読者としてはジョンの考え方のほうに共感をもってしまうのでこの世界はディストピアであるとして受け止めてしまうのだが、ではこの世界が何故ディストピアなのかというとうまく答えることができない部分もある。ではそれが何故なのかという部分において物語の終盤、読者の代弁者でもあるジョンとこの世界の統治者と対話の中でその答えが提示される。ジョンはこの世界に対する不満を訴えるのだが、その不満に対して統治者はこう答える。
「君が求めるのは不幸になる権利というわけだね」
完璧な社会において、ジョンが求める、そして僕らが求めるのは、統治者からすれば不幸になる権利だったのだ。
まったくもって素晴らしい新世界だ。
で、とうとうオーウェルの『1984年』が残ってしまった。奇しくも発表年代順に読んできたので、これはもう読まないといけないよなあ。
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