2012年にこの小説が学館児童出版文化賞を受賞した際に、その授賞式に乙一本人が出席して中田永一として賞を貰ったことで結果として中田永一が乙一であることが公式として認められてしまった。それもあってか、文庫化されたこの本の作者紹介でも乙一名義でも活躍しているという文章が書かれている。
なのに、相変わらず僕は乙一名義の小説は読んでいない。こうして定期的に中田永一の本が出てしまうと、もはやこの先、乙一の本など読むことなどないのではないかとも思えてしまう。
それに、僕が好きなのは中田永一として書かれた物語であって、乙一として書かれた物語が中田永一として書かれた物語と同等の物語でもない限り読む可能性も低い。とはいえど、乙一の物語も読んでみたいという気持ちも無いでもない。
それはともかくとして、今回は長編だ。
今までの本が短編集だったので、今回も短篇集だと思い込んでいたので、長編だと知った時にはちょっとがっかりしてしまった。はたして長編で、僕が期待する物語となっているのであろうか。
しかし読み始めてみればそんなことは杞憂で、あざといぐらいに構成と物語の設定がうまい。
僕は合唱をテーマにした物語が割合と好きで、岩岡ヒサエの『オトノハコ』や宮下奈都の『よろこびの歌』とか好きな物語なのだが、今回、新たにこの本もその中の一冊に加わった。
NHK全国学校音楽コンクールでアンジェラ・アキの「手紙 拝啓 十五の君へ」を課題曲として歌うこととなった中学合唱部の物語。この歌が十五年後に自分に手紙を書くという内容であることから、合唱部の面々は同じように十五年後の自分に対して手紙を書く。出来すぎた設定なのだが、歌を理解するという意味では実際にこんなことを行っても不思議ではない。要所要所のエピソードが綺麗にはまり、アンジェラ・アキの「手紙 拝啓 十五の君へ」に合わせて作られた物語であるはずなのに、アンジェラ・アキが「手紙 拝啓 十五の君へ」をこの物語のために作った曲のようにすら思えてくる。
主人公のひとりにサトルという少年がいる。彼のお兄さんは自閉症でそして両親は、いずれ年老いて先に亡くなる自分たちの代わりに自閉症の兄の面倒を見る要員としてもう一人子供を生む。それがサトルだ。彼はそんな境遇であることを受け入れ、兄に対して面倒を見、そして弟として兄に付き添っている。時としてそんな自分の境遇をうらやみ、嘆き、悲しむこともあるのだが、それでも彼は兄を見捨てることなどなく、家族として障害を持った兄に、この先もずっと今までと同じように接していくことを心に決め、十五年後の自分に対して手紙を書く。
僕自身も主人公と同じ、障害を抱える妻がいて、そして彼女を支える立場だ。
時として、報われない行動に全てを投げ出したくなることもある。僕自身の気持ちが妻に全くといっていいほど届かない時など特にそう思う。世間を見れば、特に、幸せな人達を見れば悲しくなることもある。そして同様に不幸な人を見ても悲しくなる。
だけれども、どんなに悲しもうがそれでもやはり妻は僕の大切な人なのだ。
この本を読んで、僕は少しだけ勇気をもらった。
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