長編第一作の『超生命ヴァイトン』がエリック・フランク・ラッセルの代表作として紹介されたというのは僕にとっては不幸な出会いでもあって、というのも『超生命ヴァイトン』は翻訳されこそはしたもののハヤカワSFシリーズの一冊として出版されたので、僕がSFを本格的に読み始めた時には入手困難な状況だったのだ。
「人類家畜テーマ」の代表作とも紹介されている作品なのでいつかは文庫化されるものだろうと思っていたのだが、いつまでたっても文庫化される気配すらない。東京創元社からはラッセルの他の作品が文庫化されていて、そちらの方は何冊かは入手可能な状況だったけれども、そっちを読んだとしても肝心かなめの『超生命ヴァイトン』は読むことができないという状況は、前菜だけ食べて、メインディッシュは食べることができないのと同じで、それだったならば前菜も食べないほうがましだという考えを持つ僕は結局、ラッセルの作品を読まないまま来てしまった。もっとも、『超生命ヴァイトン』に関しては早川書房の50周年記念の時に復刊をしてくれたので読むことができたけれども、その時には既に遅しで、他の作品は絶版状態だった。
で、今回、この本が復刊したのだけれども、あいにくとそんなわけでラッセルがどんな作風の作家なのかよくわからない。幸いなことにこの本は短篇集なので、ラッセルがどんな作風の作家なのか知ることができるのだろうと読んでみたところ、『超生命ヴァイトン』とは違う味わいの作品だったので少し驚いた。
やけに挑戦的なまえがきはともかくとして、巻頭の「どこかで声が…」は厭な物語のSF版を編むとしたらその中に入れてもいいかなと思う話でもあり、宇宙船の事故で未開の惑星に不時着した乗客達のサバイバルの物語なのだが、救助ステーションまで数千キロを踏破しなければいけないという状況はジャック・ヴァンスの『大いなる惑星』と同じ設定でありながら展開はまったく異なる。
生き残った乗客は船員と一般旅行客。船員は武器の扱いも慣れていて、体力もある、一方旅行客のほうは武器も扱えず、体力も無い。船員達は、彼らの代わりに自分たちの仲間が助かればよかったなどと旅行客をお荷物扱いしていたりするし、人種差別も存在する。そんな状態なので、最後はてっきり、弱者である旅行客の方が助かって、船員達は死んでしまうという物語になるのかなと思ったらそんな生易しいものじゃなかった。
それに比べると、全く正反対といってもいいような展開をするのが「ディアデビル」で、しみじみといい話。
表題作の「わたしは“無”」は独裁者が一人の少女によって改心するという話なのだが、読み終えてスザンヌ・ヴェガの「The Queen & The Soldier」を思い出した。「わたしは“無”」の方は独裁者は男性で、一人の少女によって改心させられる話なのだが、「The Queen & The Soldier」は独裁者は女性で一人の兵士によって改心させられるかと思いきや、兵士はあっさりと殺されて、戦争は続いたという終わり方をする。男性と女性との違いと言ってしまうのは短絡的だが、なかなか興味深い関係だった。
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