ピケティ、ディーセント・ワーク、不可能なこと、そしてほんの僅かな幸せ

物語の世界に、信頼出来ない語り手というものがある。
これは一人称の物語に多いのだが、物語の語り手である人物の語っている物事が信用出来ない、つまりそこで語られている出来事が本当のことなのか嘘なのかわからないという物語で、書かれていることが信用できない物語を読者は読み続けることになるわけなのだが、ではそんな物語が面白いのかといえば好きな人には面白いのである。
語り手の嘘に翻弄されるままに読み終えることもできるし、どこが嘘なのか探しだそうとする読み方もできる。ただ、どちらにしても気軽に読むことができるタイプの物語ではないので気分転換に読む物語ではないことは確かだ。
逆に、信頼できる語り手の物語はあるのかといえば、一般的には信頼出来ない語り手でない物語は全て信頼できる語り手の物語であるといえるのだが、少し拡大解釈をして信頼できる作者による物語、さらにはここでいう信頼の意味を物語の中の登場人物に対しての作者のまなざしとしてみた場合、沢村凛は信頼できる語り手の一人だと思っている。
話は少しずれるけれども、僕は今、トマ・ピケティの『21世紀の資本』を少しずつ読んでいる。
ただ、経済学は昔から少し興味のある分野だったけれども、本格的に学んだことはなかったし、これからも本格的に学ぶことはないだろう。そもそも五十に手の届く年齢の人間が今後の経済に関して憂いを持ったとしても何かできるのかといえば、もっと身近なところで力を注いで手を差し伸べなければいけない事がある今の僕自身の状況において、『21世紀の資本』という本を読んだとしても意味など無いのではないのかという思いもあるので買うべきがどうか迷いもしたが、結局買ってしまった。
トマ・ピケティが『21世紀の資本』で語っていることは、資本主義は完全なものに近づけば近づくほど経済的な格差は拡大していくから富の再分配が必用だ、ということらしい。富の再分配という言葉は最近、よく聞くようになった。もっともそんなものは昔から言われ続けていたので最近まで知らなかったのはお前の勉強不足だといわれたら、そうかもしれない。この本の目次を眺めていて興味深かったのが「民主主義の敵、不労所得生活者」という章題だ。
働いたら負けという言葉がある。
たしかに、僕自身だって、働かずに生活できるのであればそのほうがいいと思う面もあるけれど、ただ、僕の場合は何かを作るということが好きなので、遊んで暮らすことができたとしても何かを作る仕事は続けていくだろう。
そして僕はいま、IT業界の片隅で働いている。
IT業界では精神的な病にかかる人が多いとされている、ほんとうに多いのかどうなのか統計的なデータを見たことはないのでこの事が正しいのか定かではないのだが、身近なところで精神的な病にかかり退職したり休職したりする人を何人も見てきた。ただ、他の業種と比べてこの数が多いのか少ないのかはわからない。でも、ごく普通に仕事をしてこんなふうに病気になるということが当たり前のことなのかと言われれば、そうではないだろうと思う。
精神的な病にかかる人が多い業種で働いていながらも、僕自身はそこまでなったことはなく、代わりにというわけではないが妻がかかってしまったことは皮肉なものだ。

  • 著: 沢村 凛
  • 販売元/出版社: 双葉社
  • 発売日: 2014/12/11

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沢村凛の『ディーセント・ワーク・ガーディアン』は、普通に働いて、普通に暮らせる社会をめざして日々奮闘している労働基準監督官を主人公にした連作短編集だ。安全管理を怠ったために死者が出てしまう話や、指導をしてサービス残業を無くしたはずなのに逆に法の目をかいくぐる形でサービス残業が行われてしまう話だったり、ミステリ仕立てでありながら、そこで起こる事件の動機が、働くことができなくなることに対する恐れに由縁する、つまり、不正を見過ごさないと自分が仕事を失ってしまう、もしくは今の生活を維持できなくなってしまうから不正を見過ごしてしまい、その結果、誰かが不幸になる物語であるところが読んでいて切なくさせられる。
この物語の最終話で主人公は家庭と職場で二重の危機に襲われる。
一つ目の方はそれ以前の話の中で既に少しずつ不協和音のように危機の予兆が現れていたので読む側も何かが起こりそうだという心構えはできてはいたのだが、それでもそれが決定的となる場面は、それまでの主人公の考え方や行動に共感を持っていればいるほど衝撃的で、その状態から続けざまに更なる追い打ちをかけるかのごとく二つ目の危機が起こり、もっとも、そんな失意のどん底に主人公を陥れたまま物語を終える作者ではないことは信じているので、この境遇をいかにして乗り越えさせるのか、いや乗り越えてほしいと信じながら読み進めていくこととなる。
ネット上の感想をみると一方の問題が完全に解決しないまま物語が終わってしまうことに不満を持つ感想がやや多い。僕自身も若い頃ならばそう思っただろう。
がしかし、歳をとってくると、物語において全ての問題が解決しなくってもいいんじゃないかと思うようになってきた。冒頭にも書いた信頼出来ない語り手による物語がそうであるように、現実ではないフィクションとしての物語であっても、全てが万人に納得のできる結末をつけて終わらせる必用があるわけでもなく、それは読者がそれぞれの解釈でもって答えを見つける形の物語であってもいいのだろうと思うのだ。
『ディーセント・ワーク・ガーディアン』は働くということはどういうことなのかということについて、もう一度考えなおしてみたくなる本であり、トマ・ピケティの『21世紀の資本』を読むこともおそらく僕にとっては無意味なことでは無いのだろうという予感がする。
ろくに読んでもいない本について語るのもなんだけれども、トマ・ピケティのこの本に関して批判している人も少なからずいる。
富の再配分など頼らずに、お金持ちになりたい人は自分で努力すればいいだけじゃないかという意見もある。たしかにそうだ。
でも、お金持ちになろうとして努力しても全員が全員お金持ちになれるわけでもないし、お金持ちになりたくて働いている人ばかりでもない。『ディーセント・ワーク・ガーディアン』を読むと、普通に働いていても、働くことが報われない社会であるということをまざまざと実感する。
格差が生まれる社会というのは、働いた労力が報われない社会なんじゃないかと思うのだ。
多分、トマ・ピケティはそんな社会が嫌で、世界中の人々が幸せになることのできる社会について考えようとしているんじゃないかという気がする。無論、世の中の全ての人達が幸せになることのできる社会なんて不可能だろうけれども、でも全ての人達が幸せになるためにはどうしたらいいのか考えようとする気持ちは捨てたくはない。
今日はクリスマス・イブ。
妻にささやかながらケーキを買って帰ろう。
ほんの僅かかもしれないけれども幸せにしてあげることはできるはずだ。

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