先日、仕事の帰り道、ちょっと寄り道をしたのでいつもとは違う道を通って家に帰った。
その通り沿いに小さな書店があった。その店は高校生の頃、よく帰り道に立ち寄った書店だった。
まだ店内の明かりがついていたので営業していたのだが、僕が最後にその店に立ち寄ったのはかれこれ30年近く前のことだ。小さな個人経営の書店でありながらもまだ店が続いていたことがちょっとうれしかった。
で、ふと、本を読むということはどこからどこまでを指すのだろうかと思ったのだ。
普通、本を読むというのは一冊の本の表紙をめくったところから始まって、最後のページまで辿り着くまでを指す。
でも本を読むってことはそれだけのことなのだろうか。
というのも面白かった本の場合、どこでその本を買ったのかということも覚えていることが多く、この書店で買った本も何冊か覚えている。
家に帰るまでが遠足です。
という言葉がある。遠足が家に帰るまでだとすると、もっとも本来の意味は違うのだけれども、本を読むということは実は表紙を開く前から始まっていて、最後のページに辿り着いた後も続いているのではないだろうか。
神林長平の『敵は海賊 海賊版』とピーター・ラヴゼイの『偽のデュー警部』はこの書店で一緒に買った。一緒に買ったので『敵は海賊 海賊版』と『偽のデュー警部』は同じ発売日だったのだろうと思い込んでいたが調べてみると『敵は海賊 海賊版』の方が一ヶ月ほど早い。この本で初めて神林長平という作家の存在を知ったのでこの頃はまだ新刊とかにあまり注目していなかった頃だろう。それだけまだ読んでいない本が多かったということだ。
大友克洋の『童夢』を買ったのもこの店。
で、読み終えて、次の日に『ハイウェイスター』『さよならにっぽん』『ショート・ピース』も即座に買ったのだが、『気分はもう戦争』だけはこの店でかったのかどうか覚えていない。だからといって『気分はもう戦争』が面白くなかったのかといえばそんなことはないのだけれど。
土居良一の『カリフォルニア』もそうだ。
『カリフォルニア』に関していえばその本を買った時、店のおじさんに「この人の本、面白いの?」の聞かれたことも覚えている。土居良一の本を買うのはそれが初めてで、その当時、村上春樹に熱中して時期でなんとなくこの本もその系統というか同じ面白さを味あわせてくれるんじゃないかと感じたので買おうとしただけで、この人の本が面白いのかどうかは知る由もなかった。なので、「初めて買うのでわかりません」と答えたことも覚えている。
『カリフォルニア』が面白かったので、土居良一の新作を期待し続けたのだが、土居良一は寡作な作家だったのでそれ以降、この店で土居良一の本を買うことはなかった。
もし新作が出ていたとしたら、買った時にレジで、この人の本おもしろいですよと言うこともできただろうけれども、そんな機会が訪れることもなかった。
少なくとも本を読むという行為は、その本を読みたいと思った時点から始まるのだろう。
だから面白かった本は、その本を何処で買ったのかというところまで覚えているのだ。
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