数年前あたりから北欧ミステリが日本ではちょっとしたブームになって、それまで紹介されることの少なかった北欧諸国のミステリが翻訳されるようになった。
他の人はどうなのかわからないけれども、僕にとって北欧の国々というのは高福祉社会というイメージが強く、豊かではなくとも安心できる生活を送ることができる社会で、犯罪も少ないだろうという印象があり、だからそういう国々での犯罪を扱ったミステリというものの存在が不思議でもあった。しかし、何作か読んでみると、高福祉社会で安心した生活を送ることができるから人の心も豊かなのかといえば、かならずしもそんなことはないし、さまざまな社会問題も抱えていることもわかった。
知らない世界を垣間見ることができるという点ではミステリも僕にとってはSFと同じセンス・オブ・ワンダーに満ちている。
とはいえど、北欧の国々での社会問題ばかりを読みたいわけでもなく、ただ単純に面白いミステリを、それも今まで知ることのなかった世界を舞台としたミステリを読んでみたいという欲求が出てくる。
そんな中、今度はタイを舞台としたミステリが翻訳された。
タイでもやはりミステリというのは需要があるのだろうかと思う。しかし、日本のミステリもタイ語に翻訳されて出版されていることを考えると、タイでもミステリは好まれているようだ。
この本の作者はタイ人ではないけれどもタイ在住のイギリス人、オーストラリアの国籍も持っているのでちょっと複雑だけれども、だからといって、タイが舞台というのが申し訳程度の設定なのかといえばそんなことはない。登場人物はタイとミャンマーの人のみで、物語の舞台となるのはタイの中心部の街ではなく、南部の田舎町だ。
そして、主人公が犬の散歩で歩いていたところ、海岸沿いで生首を見つけるところからこの物語は始まる。
いきなり生首ということでずいぶん凄惨な状況に放り出されるわけだが、そんな凄惨な状況とは裏腹に、生首ではなく生ごみを見つけたんじゃないかと思わせられるくらい、主人公たちの行動や会話はのんびりとしている。
主人公は離婚歴のある元報道記者の女性。元ヒッピーの母親がある日突然、それまでの都会ぐらしを捨て田舎町に引っ越してそこでおんぼろリゾートホテルの経営をやりだしたために、そんな無謀な事をする母親を放おって置くことができなくて、仕事を辞め母親と一緒に引っ越してきた。で、彼女と一緒に引っ越して来たのは彼女の祖父と彼女の弟。祖父は元警察官だけれども、賄賂を受け取ることを拒み続けたために昇進することができず、二等巡査どまりで終わった経歴の持ち主。賄賂を受け取らないと出世できないというのが凄いのだが、それだけタイの警察も腐敗しているということなのだろう。弟の方はボディビルダーで、いかつい肉体を顔を持っているけれども、心は体とは正反対のナイーブな心の持ち主で、20歳以上も年上の婚約者に嫌われることを心配する毎日。ちなみに20歳以上も年上の婚約者は主人公達の母親と同じ年令である。
その他に今は姉となった兄がいて、彼女だけは母親と一緒に田舎にやってくることを拒み、都会で生活しているのだが、凄腕のハッカーでありながら引きこもった生活をしている。これが主人公一家なのだが、その他に、主人公と仲の良いゲイの警察官も登場する。LGBTなキャラクターが二人も登場するのはゲイに寛容なタイの文化の現れているのかもしれない。
そんな、一癖も二癖もある主人公一家とその仲間たちが生首事件の謎に乗り出すのだが、それとは別にめったに宿泊客など来ない主人公たちが経営するホテルに、いわく有りげな親子が宿泊したことから、もう一つの謎が発生する。
しかし、物語が進むに連れて二つの謎は一つに結びつくかとおもいきや、そうでもなく、二つの謎は交わることはない。なので、主人公たちは一度に二つの謎に関わらなければいけなくなる。この作者のもう一つのシリーズであるシリ先生シリーズも同様のモジュラー形式の物語なのでこういう形式が好きなのかもしれない。僕も好きだけれど。
それはさておき、長所もあるけれども短所のほうが若干それを上回っているような主人公とその仲間たちが一致団結してお互いの欠点を補いながらこの謎に挑む、といえば聞こえはいいけれども、それぞれが自分のやりたいがままに微妙にコンビネーションのずれたまま行動を起こすので、そう簡単には話がすすまない。
さらには、生首事件の方は被害者がタイ人ではなくミャンマー人であることが判明したあたりから、きな臭くなり始める。微笑みの国タイであっても人種差別は存在し、隣の国ミャンマーの人に対しての人身売買の問題や、奴隷労働、それらに関わる警察組織の腐敗と、徐々にタイという国が抱える社会問題が浮き上がってくるのだ。そもそも主人公たちは、どちらかといえば金も権力もコネも持たない社会の底辺層に位置しているわけで、まともに立ち会えばいとも簡単に闇に葬り去られてしまう存在だ。
だけれど作者、まじめに書けばシリアスな物語になるそんな物語を、あくまでユーモアと皮肉でもって描く。
この本を読んだからといって、タイに行った気分になることは決して無いけれども、観光旅行で訪れた程度ではわからないタイという社会の一部を見せてもらえることはできる。
シリーズ化されているので、続きも翻訳されたらいいなあ。
さて、次は北欧に戻ってフィンランドを舞台にしたミステリを読もう。
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