枕詞としてのドラキュラ

しばらく前に俳優のクリストファー・リーが亡くなった。昔は俳優の訃報というのはテレビのニュースから知るのが当たり前のことだったけれども、最近はtwitterで知ることが大半だ。自分のタイムライン上で、珍しい人物の名前が現れるようになると、ほぼ100%その人が亡くなっている。
それが良いのか悪いのかはなんともいえないのだが、クリストファー・リーのように大往生といってもいい人の場合はともかく、そうでない場合は少し悲しい。
クリストファー・リーの場合は、本人はどう思っているのかわからないけれども、晩年の当たり役でもある『指輪物語』のサルマン役で『ホビットの冒険』にも出演して、シリーズ作品も完結させ、無事にその役目をまっとうしたのだから立派なものだと思う。
クリストファー・リーというと一般的にはドラキュラ役の俳優ということで有名なのだが、生憎と僕は彼の演じたドラキュラの映画を一本も見たことがない。それでいて、クリストファー・リーと聞くと「ドラキュラ役の」と枕詞のようなものを付けてしまうのはいかがなものかと時々思ったりする。
一方、僕の妻は、クリストファー・リーのドラキュラ映画を見たことがあるので、クリストファー・リーの話題がでると、枕詞のごとく「ドラキュラ役の」と付けていているのだが、見ているだけあってその言葉に説得力が感じられる。
内心、羨ましくて仕方がないのだが、だったらレンタルDVDでも借りてきて見ればいいじゃないかと思うかもしれないけれど、クリストファー・リーに対してそこまでの愛はないので、この先もずっと、どっちつかずの感じで「ドラキュラ役の」という言葉を使い続けるのだろう。
役者歴が長かっただけに多彩な役を演じた人だったけれども、ゲイの暴走族リーダーを演じて絶賛されたこともあったということを知って少し驚いた。ドラキュラ映画は見る予定はないけれども、この映画は少し見てみたい。

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