小学五年生になるまで自転車に乗ることができなかった。
運動音痴だったというせいもあるが、最初に自転車を買ってもらったとき、よくあることだが自分専用ではなく1つ年下の弟と共用で使っていて、僕よりも運動神経の良かった弟の様子を見て、父が勝手に補助輪を取ってしまったせいも多分にある。もともとスパルタ教育的な器質のある父らしい行動といえば父らしい行動なのだが、子供にとってはいい迷惑でもある。
ある日学校から帰ってみると、自転車には昨日まであった補助輪はなく、それでいて弟はその自転車に乗りスイスイと気持ちよく走っていた。
昨日とは全く違う形となってしまった自転車は僕にとっては異質なものであり、父に支えてもらってもうまく乗りこなすことができず、かといって、自転車に乗ることが出来なければ困った状態になるというわけでもなく、乗ることが出来なくてもまったく問題無いという状況下において僕は苦労してまでも自転車に乗ろうという気持ちなど起こるわけもなく、そのまま乗ることもせずに時は過ぎていってしまった。
さすがに小学五年生くらいになると自転車に乗ることができないという状況には多少の不便さも感じられるようになったけれども、それでもまだ平気だった。
ある時、弟と二人で遊びに出かけていて、もちろん弟は自転車に乗っていて、僕は自転車に乗った弟に遅れまいと早歩きをしていたのだが、弟の友達とばったり出会い弟はその友達と遊びに行くこととなった。もともと何をして遊ぶという予定もなくただ二人で散歩していた程度なので、そのまま僕は家に帰ることとしたのだが、弟の友達が歩いて来ていたので、弟は自転車を僕にあずけ家まで持っていってくれと頼んできた。
僕と一緒の時は自転車に乗っていたのだからそのまま自転車に乗っていけばいい気もしたのだが、友達に対する気遣いは兄に対する気遣いとは異なるのだろう。いや兄に対しては気遣いなどしないだろう、普通の小学生ならば。
それはともかくとして、ものすごく久しぶりに自転車のハンドルを握った。
もちろん、握っただけでまたがることなくそのまま引いて歩いていたのだが、そのときなぜか頭のなかで自転車に乗りペダルを漕いでいるイメージが鮮烈に浮かんできた。
それがあまりにも鮮明でリアルなイメージだったので、そのままそのイメージに掛け合わせるように自転車にまたがった。
そして夢なのか現実なのかわからないまま僕は自転車にまたがりペダルを漕ぎ続けたのだが、自転車に乗れたじゃん、という弟の声によって現実の世界に引き戻され、そして、よたよたと転んでしまった。
しかし、一度覚えた感覚は忘れないもので、そのときから僕は自転車に乗ることができるようになった。そしてそれ以降、僕はイメージトレーニングというものを大切にしている。
困難な事があっても頭のなかでそれを達成したイメージがきっちりと出来上がると、出来上がらないまま始めた場合よりもうまくいくことが多い。
それは僕の頭のなかで起こる未来へのタイムトラベルなのだ。
頭のなかのタイムトラベル

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