救い

救いというのはどこにあるのだろうかと考えることがある。
今回の熊本を中心とした地震で、発達障害を抱えた被災者の問題というのが少しニュースになった。
東日本大震災の時もそうだったのだが、発達障害を含めて心の病というのは目に見える障害でないだけに、理解されにくいものがある。
例えば今、僕の住んでいる地域で大きな地震が起こったとした場合、僕と妻は避難所に非難するという選択肢がほぼない。住んでいる家が生活困難な状態になったとした場合、僕と妻は車の中で避難生活をしなければならないだろう。避難所で不特定多数の人々とプライバシーなどなきに等しい状態で生活するというのは統合失調症を患っている妻にはほぼ不可能である。
仮設住宅に入居することが可能となったとしても、人と人とが密接した状態で、妻はそういう状況に耐えることはおそらくできないので仮設住宅に入居するという選択肢もほぼない。
困っている集団を助けようとする場合、その困っている人たち全てを助けることが出来る場合は何も問題はない。しかし、往々にしてその一部の人達しか助けてあげることができないことがある。
救う方からすれば、それは仕方がないことだと割り切るしかないのだが、救われなかった側からすると、そこでさらに孤立してしまうことになる。救いの手が差し伸べられることがなかったならば、自分以外にも困っている人がいるという仲間意識が僅かな救いとなるのだが、その仲間からも取り残されてしまった場合、そこにあった救いは消えてしまう。
だから救いというのは明確な線引をしてしまうと消えてしまうものなのではないかと思うことがある。曖昧な中に救いというものはある、いや曖昧の中にも救いがあるのだろう。

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