助けぬ理由

「助ける理由」、「差別の種子」と記事を書いてきたのだが、最初の命題に戻ると、助ける理由というのは本当は必要ないのだと思っている。あえて逆説的に書いてみた。
相模原の事件で加害者は障害者を殺害する理由として社会を助けるためにと理由をつけた。社会を助ける理由である。
しかし、被害者の側からしてみればそれは助けるではなく助けぬ理由にほかならない。
だから、助けることに理由は必要ないけれども、助けないことには理由が欲しいと思う。
人が何故弱者を助けるということをしているのか、もちろん弱い存在を助けるのは人だけではないのだが、この点に関しては、弱者を抹殺する。 不謹慎な質問ですが、の問いに対してベストアンサーに選ばれた回答がわかりやすい。
おおざっぱに説明すると、人が生存戦略として選んだのは「社会性」で、これはたくさんの個体を生き延びさせることで種としての生存、つまり子孫の繁栄の可能性を最大化させるということだ。
なので、個体としての強弱というのはあまり関係がなく、どこまで助けるのかという点においては社会の力に依存する。文明が発展すればそれだけ多くの個体を生き延びらせることができるし、経済が発展すれば同じく多数の個体を生き延びらせることができる。
しかし、ここで疑問に思うことが一つある。
社会が維持できなくなるような状態になった場合、助ける人数を減少させるのだろうか。
厳しいことだけれどもそうなった場合、社会としては助ける人数を減らすという行為を行なったとしてもそれは矛盾していない。しかし、社会が助けないからといって個人が助けない理由はないし、助けて悪いわけでもない。
小学校の時に担任だった先生が卒業文集で書いた言葉がある。
「野に咲く雑草でも美しいと思う心を持って欲しい。」
雑草だから美しくないという偏見を持たないで欲しいという意味だと僕は思っていて、小学校で学んだことのなかで一番良かったことだと思っている。

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