便利になるほど不便になることもあるよなあと思うことがたびたびある。
僕は技術者なので、技術は人を幸せにするためにあるものでなければいけないし、それは絶対的な条件であって不幸せにする技術はあってはならないと考えている。
技術の進歩は世の中を便利にしていったのだが、それが幸せに結びついているのかというとそうでもないと思う。
なんでもかんでも便利にすれば人は幸せになることができるのかというとそうでもない。
少し前に、会社で開発をするのにmacのパソコンが必要になるという話がでた。その時、本当にそれだけの台数のmacが必要になるのかという指摘がされた。もちろん、購入費用をけちるために出た指摘ではない。
僕が社会人となって初めて就職した会社ではその当時、1人に1台の開発環境が与えられていたわけではなかった。プログラムというのはコンピューターにプログラムコードを入力しなければなんの役にも立たないのに、それを行うことすら自由ではなかったのである。
では開発環境を使うことができない時間は何をしていたのかといえば、頭のなかでコードを組み立てて、そしてコーディングシートと呼ばれる用紙に鉛筆でそのコードを書いていた。
コーディングシートに全てのコードを書き終わった時点でようやく開発環境を使わせてもらうことができるのだ。
そうやって、頭のなかでコードを組み立てていくということをし続けていった、というよりもそれ自身がプログラムを書くという訓練でもあったのだが、おそらく僕と同年代の人たちは頭だけあればプログラムを書くことができるし、紙と鉛筆があればそのコードを記録しておくことができる。
パソコンなどなくてもコードを書くことはできて、ようするに1人1台ずつパソコンがなければいけないということはなかった。
宮﨑駿が紙と鉛筆さえあればアニメーションを描くことができるといったことがある。ニュアンスは少し違うけれども、僕の場合も頭だけあればコードを書くことができて、だからかもしれないがその点においては今の若い人に負ける気がまったくしないのだ。
しかし、僕がたどってきた道と同じようなことを今の若い人たちにもやらせたほうがいいのかというと疑問に思うこともあって、技術が進歩して便利になったのであれば、それなりの新しい方法があるのかもしれないと思ったりもする。
ある一定の苦労はしないと覚えることはできないものというものもあるのも事実だと思う。
でも、そういうふうに思ってしまうのは古い考え、というよりも今の技術を元にした新しい方法論を見出していないだけなのかもしれないという思いもある。
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