藤原正彦の『祖国とは国語』という本を読んで、自分にとっての祖国とは日本語の事だったのだと思った。
僕は帰属意識というものに乏しい。
だからといって一匹狼を気取っているというわけでもないし、集団の中にいることが苦手というわけでもない。
とはいえども郷土愛とか出身校に対する思い入れとかそういったものもほとんどなく、それはつまるところ、その集団あるいはその地域、その場所というものが自分のものではなくみんなのものだからという理由が大きいからだとおもう。日本という国は好きだけれども、いわゆる祖国愛というものがあるかといえばあまりない。
それに比べると日本語には愛情ともいえるものがある。日本という国は自分の自由にはできないけれども、日本語は自分の自由にできるからなのだろう。そういう点では僕はかなりわがままなのかもしれないが、国語というものが祖国であるというこの言葉はよく理解できる。
国語というものはその国の文化であり、コミュニケーションのための道具であり、そして物事を考えるための道具でもある。アイヌにはアイヌ語があるし、琉球には琉球語というものがある。どの言語を自分の国語とするのかは個人の自由なのだが、とくに日本語というのは他の国の言葉と比べてポテンシャルが高い。日本語で考えてはダメだというのは日本語の持つポテンシャルを理解していないからだと思う。単純に意思伝達のための手段だけで使うのはもったいないことで、物事を理解するための、物事を考えるための言語として改めて日本語というものを見なおしてみると、その奥深さがわかってくる。
というわけで、日本語は僕にとっての祖国であり、日本語でものを考え、日本語で理解をするということで、祖国は常に自分の中にあり、だからどこかの場所あるいはどこかの集団に帰属しなくても平気なのだろう。
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