幸せの描きかた

切り詰めた生活と、報われない詫びと、いずれ角膜の移植手術をしなくてはいけない息子。それらぜんぶを背負いきらねばならないほど、この子はどんな悪いことをしたんだろう。

何か悪いことがあると、何か悪いことが続くと、そうなってしまったのは自分自身がなにか悪いことをして、その罰をうけているのだろうと思ってしまうことがある。僕はそう思うことは無いのは信心深くないからだろうけれども、少なからずそう思う人はいる。
自分の力ではどうしようもない不幸が訪れた時、それは何かの罰なのだと思うことは必ずしも悪いことではないと思う。そう思うことでバランスをとることができるのだろう。何も悪いことなどしていないのに不幸なことが身に起こるということを受け入れるというのはなかなか難しいし、それは無慈悲でもある。
もちろん、そう思ってしまうことで別の不幸を呼び寄せる結果となってしまうかもしれないが……
物語は20歳以上歳の離れた妻帯者の男と不倫関係になり子供を身ごもり、そしてその相手とともに駆け落ちをしてしまった一人の女性をめぐる物語だ。といっても彼女の視点で物語が語られることはない。
ここで語られるのは彼女の友人や彼女の親、あるいは彼女とかかわった人間の物語である。
1984年からはじまって、語り手が変わるごとに年代は下がっていく。
それぞれの物語はあくまでその語り手の物語であるのに、そして、決して主役である彼女の視点での物語は語られることはないのに、どの物語でも、登場した瞬間に彼女がその物語の中心を占めてしまう。
不幸であるのに幸せを描く。こういう形で幸せ描くことができるのだ。

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