前日

昨日の夜、妻はジブレキサを一錠飲んでくれたように見えるのだが、しばらくして台所に行き、水を流す音が聞こえた。ひょっとしたら口に入れたけれどもそのまま飲み込まず、僕がいなくなったあと、吐き出したのかもしれない。飲んでいれば翌朝も眠っているはずなので朝の様子を確認してみればわかるかもしれない。
もうあまりそのことに関しては気にしてもしかたがないと思うようにしたが、明け方あたりから妻がうろうろと部屋の中を歩いている音が聞こえる。たぶん、吐き出したのだろうなと思う。
目覚ましが鳴り、僕も起き出す。着替えて仕事に出かける準備をする。ソファーで妻と一緒に薄暗い部屋の中、出かける時間まで過ごす。テレビもつけない静かな世界。
もう慣れたのかというと慣れない。
隣の妻を見る。首元をみるとずいぶんとやせ細っている。いてもたってもいられなくなり、今日も妻を内科に連れていき、点滴を打ってもらおうかと思ってしまうが、あまり妻にストレスを与えたくもない。ゼリー飲料はまだ半分以上も残っている。ペットボトルのお茶も半分も減っていない。話しかけてもうなずいたり首を横にふったりとしかしない。多分、喋るのも辛いのかもしれない。
思わず妻を抱きしめようとするが、怯えた表情で避けられてしまう。
配偶者が統合失調症の場合、どうしても相手に嫌われたくないという感情が湧いてしまう。もちろん子供や親、あるいは兄弟が統合失調症の場合でも嫌われたくないという感情はあるだろうが、その一方で、嫌われたとしても一人で行きていくことができる状態になってくれればそれだけで十分だという気持ちに切り替えることもできる。でも配偶者の場合、一人でも生きていくことのできる状態というのは別れるということだ。
でも妻を妻としてみるのはやめて、子供として思うことにするべきなのではないだろうか、9年目にしてようやくそういう考えに至ったばかりだったが、そんなにすぐには無理だった。
やせ細った妻の姿と避けられたことで動揺してしまう。空腹感はあるけれども吐き気も止まらないままだし、自分が思っていたほど大丈夫ではなかったのかもしれないと思い、仕事に出かける前に内科に寄ることにした。
昨日、妻を診せに行った内科だ。
受付では、今日はご主人さんですかと言われて、はい、そうですと苦笑いして答える。
先生に、吐き気が続いていると説明し、同時に妻がああいう状態ですので、気持ちの問題が大きいと思っていますと話す。熱は平熱で血圧も異常はない。お腹周りを触診してもらっても特に異常もない。以前に、仕事が忙しくて吐き気が止まらなくなったときにもこの先生に見てもらって、そのときに出してくれた安定剤が結構効いたのでそのことを話す。自分の症状に関してはそれくらいで十分だった。
自分から話す前に先生が奥さんの状態はどうですかと聞いてくれたので、相変わらず食べてくれませんと話す。内科の先生なのでこれ以上先のことについて聞いても困ってしまうだろうけれども、明日、精神科に受診させて、入院という方向に進んだとしても、実際に入院できるまで早くても来週くらいだろうと思っています。それまでの間、どうしたらいいでしょうか。先生の目から見て今の妻の状態はどのくらいでしょうかと聞いてみる。先生は少し考えたあと、土曜日にでも、もう一度点滴を打つということもできますと言ってくれた。
処方してくれたのはソラナックス0.4mgとアピリット錠50mg ソラナックスは眠る前、アピリット錠は食後。
昼飯を食べたあと薬を飲んだところ、吐き気も不安感もかなり軽減された。薬の効果なのか薬を飲んだという心理的な問題なのかはわからないが、妻の場合はジブレキサを飲んでもすぐには効果が出ず、数週間もかかるのにこの違いはなんなんだろうかと思ってしまう。やはり症状が軽いうちに対処するからなのだろうか。
仕事を終えて家に帰る。相変わらず明かりは見えないのだが、車を駐車場に入れていると玄関の明かりがついて妻が顔を出した。僕が帰ってきたことを確認したと同時に、車でやってきたのが妻を迎えに来ようとしている誰かではなく僕だったことに安心してくれたのだろう。
家の中はランタンの明かりだけで薄暗い。今日は帰りに自分の夕食として餃子を買ってきた。昨日はカレーうどん、その前はラーメン。匂いで少しでも妻の食欲が湧いてくれるかもしれないという淡い期待だが、妻はなにも食べようとしない。ゼリー飲料もほとんど減っていない。台所に置いておいたレトルトパックのおかゆも数は減っていない。ペットボトルのお茶も一昨日から同じペットボトルで朝と比べて150mlぐらいしか減っていない。
「ゼリー飲料は飲まなかったの?」
「ゼリーは固形物だから、食べちゃだめなの」
どうやら昨日の内科での受診のときに、先生の言った言葉を曲解して理解してしまったようだ。先生は、いきなり固形物は食べずに柔らかいものから食べるようにと言ったはずだ。
少しでも食べてくれていれば入院させずに済むのにと思うのだが、ここまでくると仕方がない。
薬を飲もうねというと、飲んでくれるのだが、薄暗い中、どの薬を飲んだのかわからない。
どちらにしても明日だ。

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