入院

朝八時に来てくださいということだったので、妻を促して家を出る。妻は午後遅くの受診でいいでしょ、というのだが、そういう訳にはいかない。
とはいえども、内科のときと違って、精神科へはぐずりもせずに素直に行ってくれる。
待合室で待っているとしばらくして妻の名前が呼ばれた。
先生と妻の話が始まる。
その合間に僕が妻の様態を先生に話す。何も食べていないことを知って、先生は食べなければ入院しなくちゃいけなくなるよと優しく妻に言う。
そしてゼリー飲料とかおかゆとかから食べてくれるねと妻に問いかける。
すると妻は「はい」とうなずく。
薬も飲み始めはクラクラするかもしれないけれども一週間くらいすればそれもなくなるから、それまで我慢して飲んでくれるね、と先生はいう。
「はい」と妻はうなずく。
この感じだと、妻は食事も少しずつ食べてくれて、薬も飲んでくれそうな気がしてきた。もう一週間様子を見てもいいのではないだろうか。
いや、先週も妻は同じ返事をした。ここでは先生がいるのでそう返事をしているだけだ。
「先生、入院する方向で考えています」
と口に出す。
先生は妻に「入院したいの」と聞く。
妻は入院することになると思いますと答える。
先生は、僕にどうしますかと聞いてきた。
僕は今までの妻の様態を話し始めるのだが、「それはいいですから、入院はどうしますか」と言ってきた。
ああ、そうか。
先生はもともと入院させずに家庭で治療をさせていく方針の人だったのだ。だから、入院させたくはないのだ。
でも、医者でもない僕はどう判断したらいいのだろう。
何も食べようとしない妻。
妄想を膨らませていく妻。
先生から見て、妻は入院させなくてもまだ大丈夫なのだろうか。
それを聞きたいがために妻がまだ話していない今の状態を話そうとしたのに、結論を出さなければいけない。
「入院させます」
この決断が正しいのかどうなのかわからない。
入院先はこの病院に転院する前に通院していた病院になった。妻も入院するならばそこだろうと言うことがあったし、知らない病院ではないので少しは気持ちも楽になるだろう。
一度、家に帰って支度をする。
帰り道、妻が、100%のりんごジュースが飲みたいと言ってきたので買って飲ませてあげる。
家について、これから入院先の病院へと行かなければいけないのだが、妻はもう少しゆっくりしていこうという。できることならゆっくりしたいが、手続きや、それに診断もある。行っていきなり入院という訳にはいかない。それに着替えも用意しなければならない。
前回のとき、着替えの用意で苦労したので妻がいるときにある程度用意しておこうと思ったが、入院することを納得してくれているとはいえ本音は入院などしたくはないはずで、だからしたくない入院の準備をさせるのも酷な話だ。下着のたぐいだけ、一日分くらいまとめさせて、それだけにしておいた。
入院先の病院では事は淡々と進む。
最初に診断があり、過去の症状、今の症状、妻には止められてしまうことも話す。そして一通り話し終わり、先生のほうも聞きたいことは聞き終わったあとで、先生が妻に、入院の同意を求め、妻がうなずき、入院の手続きが始まった。
おそらく妻は自分が同意したということは理解していないだろう。最初から入院する、させられることを覚悟していたので、入院という言葉にうなずいただけだ。その場にいる人間の中で多分僕だけがそのことを知っている。
今回は、妻が同意したことで任意入院となった。
そこから同意書の書類が読まれ始める。ここからがきつい。
入院中は自由は制限されないが、暴れたりした場合には保護室に入れられる。治療中に薬の重大な副作用が発生する可能性がある。
等、なかなか辛い事項が読まれていく。妻には聞かせたくないのだが、任意入院なのでどうしようもない。妻が聞き流してくれることを祈るしかない。
永遠とも言える苦しみの文言が終わり、妻と一緒に病棟へと向かう。
病棟では妻の病棟の担当看護師と入院時の事柄について説明を受ける。このあたりは細かく書くつもりはない。多分、どの科に入院したとしても似たような説明を受けるだろう。
そしてその後、入院のしおりをもらい、入院に必要な着替えなどを持ってきてほしいと言われる。妻は血液検査をする。そしてそこで僕は妻と別れた。
僕は入院の手続きの書類を書き終えたあと、家へ戻って妻の着替えなどの準備をする。
もう時間は午後一時を過ぎていた。
空腹感はあるが、食欲はそれほどない。車の運転中、ときどき涙が出てきたが、それほど悲しみは襲ってこない。吐き気もない。
家にたどり着き、最初に行ったのは雨戸を開けることだった、
暗かった部屋が明るくなる。澱んだ空気も爽やかになる。そんな気がした。嫌がる妻を説得して雨戸を開けていれば妻も少しは元気になったのかもしれないが、後悔してもしかたがない。
押し入れからデイバッグを取り出し、妻のタンスを開けて着替えを入れていく。その他、入院のしおりに書かれているものを詰め込んでいくのだが、入り切らないことに気がつく。ボストンバッグを買っておいてよかった。それにデイバッグは紐がいろいろと付いているので病院で使わせてもらえないかもしれない。紐のあるものは禁止なのだ。
あとはボディシャンプーを途中で買っていけば大丈夫だというところまでいったので、病院へと向かう。途中のコンビニで旅行用の小さなボディシャンプーを買うと同時におにぎりも一個買う。食べながら病院へと向かい、受け付けで面会票を書き、面会者用の首から下げる名札をもらって病棟へ。病棟の入り口は鍵がかかっているが、最初の病院と比べると、大きなガラスがついていて扉の向こう側が見える。開けようとしても鍵がかかっているので開かないだけで、開放感がある。これはよかった。
電話でナースセンターを呼び出して開けてもらう。
荷物は中身を検査すると行って持って行かれる。
妻の病室へと行くのかと思ったら面会室へと通される。面会室は縦長四畳くらいの狭い部屋だった。
そこで待っていると妻がやってきた。
数時間前にあったばかりなので変化があるわけでもないが、牛乳と焼きそばを少し食べたと言った。よかった。食べることができる状態だったんだ。
病院食は普通の食事だと聞いていたので心配だったが、こればかりは病院側にまかせるしかない。
着替え等、一通りは揃えてきたはずだったが、看護師に、もう少しタオルと着替え、爪切りと、ボディーシャンプーはもっと大きいものがいいと言われる。明日揃えて持っていこう。
妻が面会室の椅子に座っているのが疲れたと言い始めたので今日はこれで帰ることにする。もっと一緒にいたかったが、いてもお互いそれほど話すこともないし、無理して話をしても妻は疲れてしまうだろう。
病院を出ると四時過ぎていた。少し日も傾き始めている。でもまだ明るい。良かったと思う。これで夕暮れになっていたら今よりももっと悲しくなるだろう。
家に帰ると誰もいない。すかさずテレビをつける。電気もつける。ラジオもつける。
ときどき悲しくなる。
でもそれもしばらくするとおさまる。
寂しくて仕方がないが、それでも、妻と途切れてしまったわけではない。会いたいとおもえば、多少の時間の制約はあるけれども会いに行くことができる。
でも、今すぐ会いたい。

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