『安楽死を遂げるまで』宮下 洋一

『老後ひとりぼっち』の次はこれを読む。
妻よりも先には死ねない。と思う半面、妻よりも先に死ねたら幸せだなと思うこともある。
50を過ぎて、とくに妻の病気のことを思うと、この先のことが心配になる。いや、ここでいう心配というのは、僕が妻を幸せにしてあげること、そして妻が生きていてよかったと思ってくれるような生活をさせてあげることができるのだろうかということだ。
これ以上は無理だと思った時点で人生を終わらせることができたらどれだけいいのだろうと思う。
もっともこれは僕が一方的に思っていることなので、妻はどう思っているのかはわからない。いや、妻は長生きなどしたくはなく、いますぐにでも死にたいと思っている。
そう思いながらも妻が命を絶とうとしないのは死ぬことが怖いからで、かといって生きていることも怖い妻にとっては生きることも死ぬことも恐ろしいという状況にある。
それが心の病の問題なのかといえばそうなのだろうと思うのだが、そのいっぽうで、ではその病を治してあげることができるのかといえばできない。
医学が発展していつかは治すことができるのかもしれないが、それがいつなのかなどわかるはずもないし、僕と妻が生きている間にその日がやってくるのかどうなのかもわからない。
良くなるという希望の持てない苦しみを前にして、安楽死ということを考えることもある。
しかし、はたして安楽死は良いことなのだろうか。
基本的には自分の死を自分でコントロールすることができるのは間違ってはいないと思っているけれども、社会の制度として安楽死が認められることが良いことなのかというと、僕の考えも揺らいでしまう。
自分の死を自分でコントロールするということは自死であり自殺だ。安楽死という言葉に置き換えるとなんだか違うもののように見えてしまうけれども。
安楽死を望む人は癌あるいは難病で治る可能性の乏しい人だと思っていたが、この本の中で、精神疾患を患っている人の安楽死について書かれていて驚いた。そう、妻と同じなのだ。
去年、妻は食事を取ろうとせず衰弱することを自ら選んだ。僕は結局、妻を助けるために入院という手段を選んだのだが、心の何処かで妻の望む形を取らせてあげたほうがいいのではないのだろうか、そういう気持ちもあった。統合失調症という病で苦しむ妻を生かさせようとすることは本当に良いことなのだろうか。
そう思うとき、僕は八本脚の蝶の二階堂奥歯さんのことを思い出す。二階堂さんは自死を選んだ。二階堂さんはひょっとしたら精神科での治療を行い続ければ、苦しむこともなく自死を選ぶこともなく今でも生きていたのかもしれない。しかしそれはかもしれないという仮定の話である。

あなたがもし、寝たきりで、死にたいのに死ねないのであれば、どうしますか?
一瞬、沈黙が流れる。ホセが数秒後に口を開く。
「俺は安楽死を選ぶ」
その意味が、一瞬、私には分からなかった。安楽死は良いというのか。ラモナを犯罪者扱いしたホセが、安楽死を選ぶというのか。ホセが、また怒声を上げて叫んだ。
「俺はいいんだよ。だけど、ダメなんだ。家族だけはダメなんだよ!」

僕もホセと同じなのだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました