プログラムの個性

『遼平新事情』という漫画がある。
美術学校に通う大学生を主人公とした漫画だ。
その中で、主人公、遼平たちが大学のOB会のために校長室にある絵を会場まで運ぶ仕事を依頼されるエピソードがある。
その絵はOBの画家の一人が描いた絵で数千万円の価値があるといわれている。そしてその絵を運ぼうとして遼平たちはその絵に穴を開けてしまうのである。
貧乏学生である彼らにはもちろん数千万円の弁償などできやしない。
そこで遼平たちがとった行動はというと、ひそかにアトリエに運び込み、裏張りをして絵の修復をしようとするのである。
いつまでたっても絵が届かないことに心配になった校長とOB達は遼平たちを探し出そうとして、そしてアトリエへとたどり着く。
一人、アトリエにこもり、修復をしようとする遼平。
OB達がアトリエに押し入ってそこで彼らが見たものは、絵筆を握ったまま金縛りにあった状態の遼平の姿であった。
校長は退学だとさけぶのだが、OBたちは遼平たちを許してやれという。彼らは貴重な体験をしたのだと。
絵は、その絵を描いた作者のものであって、その絵に手を加えることは作者以外には誰にもできない。
遼平が金縛りにあったのは、頭で意識せずとも体がそのことに反応したからでそれは遼平が自分自身のスタイルというものを確立しようとしているからである。
プログラムを書くという行為も似たものがある。
プログラムにも個性が現れるのだ。
もちろん、プログラムに個性が必要なのかといわれれば、厳密にいえば必要はない。無個性であるほうがいい。
しかし、個性のあるプログラムのほうが面白い。
他人の作ったプログラムを修正しなければいけなくなったとき、僕はいつも悩む。
作った人の個性を理解したうえで、その個性に合わせた形で修正するべきか、それとも、このプログラムそのものを自分の個性で塗り替えてしまうかについてだ。
しかし、おそらくこんなことで悩む人間は僕ぐらいかもしれない。

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