本の感想などをブログで書いていると、ごくまれにコメントをいただくことがある。
ごくまれ、という部分が結局は僕の文章のつたなさや内容の無さからなのだろうと思っている。それはさておき、ごくまれにコメントをいただいて、さらにごくまれにおすすめの本を紹介されることもあるのだが、それはそれでありがたいと思う一方で、年々、本を読む速度が遅くなり、それに反比例する形で読みたい本が増えていくので、おすすめされてもいつ読むことができるのかわからないという状態だ。
もっとも、優先順位をずらして、先に読んでしまえばいい話なのだが、いざ読んでみてそれが僕の好みの本ではなかったとしたら、と思うと躊躇してしまう。
昔は、読んでつまらなかった本も、どこがつまらなかったのかをできるだけ詳しく書いてブログに上げていたが、途中で止めてしまった。
つまらなかった本の感想を、どこが駄目だったのか丁寧に書いてブログ記事するというのはそれなりに手間のかかることだし、その記事を読むほうもあまりいい気持ちはしないだろう。だったら面白いと思った本のことだけ書いたほうが気分も良い。
そんなわけで、読んで面白くなかった場合、どう返事をすればいいのだろうかと悩んでしまうのだ。
せっかくご紹介してもらったのですが、私には合いませんでした。
と書くべきか。それだったら何も書かない、いやまだ読んでいないふりをしたほうがいいかもしれない。
『至高聖所』はかれこれ8年ほどむかし、とある人から読まれたのであれば少し感想を聞きたいと言われた本だ。
その時点ですでに絶版だったので、もっとも古書で手に入れることは可能だったが、その時の自分に期待されるような感想を書くことができるのか自身がなかったので、そのままにしてしまっていた。いや、つねに心の何処かではいつかは読まないといけないなあと思ってはいたのだが、なかなかネットでこの本を買おうという勇気を出すことができなかった。
そうこうしているうちになんと復刊したのであります。
正直いえば8年前の自分が感想を書く自身がなかったのと同様、今の自分も期待にそえるような感想を書くことができるのかといえば、まったくない。むしろ8年前のほうがまだ書くことができたんじゃないかと思うくらいだ。
と、いいわけはこのくらいにしておいて。
「僕はかぐや姫」は読み始めて戸惑ってしまった。というのも主人公は自分のことを「僕」と言っているのに主人公は男の子ではなく女の子なのだ。しかし考えてみればタイトルからして、かぐや姫であり、かぐや姫は女性である。そして「僕は」かぐや姫であると言っているのだから女性だ。
かといって主人公は性同一性障害というわけではない。ひょっとしたらそういうニュアンスも含んでいるのかもしれないが、それは考え過ぎなのだろう。女性という性別に対して未分化であるということだ。
そこで、ああそうか、だからこの後に『紫の砂漠』という物語が書かれたのだと納得した。
さて、「至高聖所」である。
「僕はかぐや姫」が高校生であったのに対して「至高聖所」は大学生と少し年齢が上がるが関連性はない。
総合大学に入学した主人公は寮生活をする。寮は二人部屋だが、主人公の同部屋の相手は入学式を迎えても引っ越しをしてこない。大学生活が始まってかなり経ってからようやく引っ越しをしてくるが越してきて早々、金曜日になってもまだ寝ていたら起こしてと主人公に言って寝てしまう。まだ火曜日だというのにだ。
主人公とはちがい、かなリ癖のある人物であるが、かといって主人公が彼女に振り回されるというわけでもない。同部屋でありながら双方ともにある程度の距離を保ったまま共同生活を行っている。
この適度な距離感が良いことなのかどうなのか。良くも悪くもそれは主人公の性格からくるもので、この距離感があることで二人の人生というものは混じり合うことがない。
それは主人公が興味を持っている鉱石と同じで、硬く、他者を受け入れることをしない。
そういうわけでこの物語は不思議な空気感を醸し出している。
コメント