なんとものすごく地味なタイトルなのだろう。
とはいってもこの本が書かれたのは1965年、翻訳されたのは1975年のことだから当時はそれほど地味な言葉ではなかったではなかったとおもう。
しかし、内容の方はというとこれまた地味だ。
小松左京の『エスパイ』が連載されたのが1964年のことなので、超能力を扱ったSFでも派手な物語はすでに存在していたのだが、ジョン・ブラナーはひとくちに超能力といっても様々な種類の能力があるなかで、テレパシーだけをとりだして生真面目な物語を作り上げた。
主人公は私生児で、せむしの不具者としてこの世に誕生する。彼が生まれたときには父親は亡くなっているがその父親というのがテロリストであるうえに、テロ行為を行った死んでいるのだ。
いっぽうで母親のほうはというと、子供が生まれたことで自分の老後が助かると安堵するが、それも不具者であるということを知らされるまでのことだった。それでも彼女は生活のためだけに愛情のない結婚して主人公を育てるのだが、彼が成人したときに義理の父親も母親も亡くなってしまう。
孤児となった彼はふとしたことから自分にテレパシー能力があることを知るのだが、警察に追われる身となってしまう。逃げた先で耳が聞こえないためにしゃべることもできない少女に助けられ、そこで彼は自分の能力を使って彼女とコミュニケーションを取りながら生きていくのだが、やがて国連に身柄を保護され世界保健機構の職員として働くこととなる。
この世界のテレパシストは国連の職員として調停役のしごとを担っている。諜報部員としてスパイ活動を行っているわけではないところが興味深い点で、同時にブラナーの作り上げた世界とテレパシストの設定は、テレパシストたちがこの世界でいわゆる善の立場にいる必然性を持たせている。
ブラナーの作り出したテレパシストの設定はもう一つあって、テレパシストは完全な存在ではなく、強烈なストレス下に置かれると、自己の作り出した精神的世界に周囲の人間も巻き込んで引きこもってしまうという設定がある。
引きこもってしまったテレパシストを助け出すことができるのはテレパシストだけなのだが、力関係の問題で逆に取り込まれてしまう場合もある。主人公は世界最強のテレパシストなので彼がそのような状況になった場合、だれも彼を助け出すことができない。
そういった問題をはらみつつも、物語はものすごく地味にそして堅実に進んでいく。
自己を見つめなおすために生まれ育ったふるさとを訪れ、昔の知人を訪ねる場面などは、過去の主人公自身が認識していたことと現実との食い違いに悩んだりするという点で『アルジャーノンに花束を』を彷彿させたりもする。
しかし、『アルジャーノンに花束を』のような泣きの物語ではない。一人のテレパシストの魂の遍歴という部分もあるんだけれども、そういう個人の問題と、社会全体における様々な問題とをシームレスに結びつけて、そして感傷的にならずに冷静に描ききっているのだ。
読んでいて、ブラナーの誠実さというのが感じられる。その誠実さはSFに対する誠実さで僕好みでもある。
久しぶりに再読したのだが、やっぱりブラナーはいいなあ。
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