<機械の精神分析医>シリーズ五編とそれ以外の短編五編が収録された短編集。
もともとはオンライン・ファンジン「THATTA ONLINE」で掲載された短編を一冊にまとめるにあたって改稿したものだけれども、改稿前のバージョンも先のサイトで読むことができるので読み比べてみるといろいろと興味深い。
<機械の精神分析医>シリーズのほうはアイザック・アシモフのロボット心理学者が登場するロボット短編に似た話でコンピュータ絡みのトラブルの原因を主人公が突き止めるという展開だ。似ているのはあくまで枠組みの部分で中身は現代の技術に合わせてアップデートされている。作中で描かれている技術は既存の技術の延長線上にあって、それゆえにSFとしての飛躍という点では乏しいけれども地続きであることの安定感があり僕好みの話だ。逆に後半のノンシリーズは枠組みの制約が無いぶん語り口の幅が広がってバラエティ豊かな作品になっている。
スーパーコンピュータの中でシミュレートされた脳が語りかけてくるという「機械か人か」が傑作。コンピュータ上で意識を作り出すというSFはあったけれどもこの話では分子の運動を計算するというところから始まっている。つまり脳というハードウェアを生化学的なレベルでシミュレートするというところが面白い。脳というハードウェアをシミュレートすることができれば意識、あるいは自我というものを作り出すことは可能ではないだろうかと思わせる。もっともこの話の面白さはそれだけではない。何故脳をシミュレートさせたのかという理由と合間合間に挟まれる謎のエピソードがつながる結末が素晴らしい。
遠隔地でのビデオ会議システムを使っての求人面接を扱った「にせもの」は面接相手が実際に存在する人物ではなくにせもの、つまりコンピュータ上でのみ存在する単なるプログラムではないかという問題を扱う。チューリングテストをクリアできるレベルであれば確かにこういうことが起こりうるのだが、では何故そんなことをする必要があるのかという部分にひねりが効いている。
無人操縦のドローンバスの衝突事件を扱った「衝突」では機械学習の問題点を浮き彫りにさせる。自動運転というとトロッコ問題があげられる事が多いが、ここではトロッコ問題以前に機械学習での学習データの取捨選択の問題を浮き彫りにさせている。
ノンバルと呼ばれる会話プログラムと会話した人々の断片的なエピソードをつなげる「ノンバルとの会話」はラストで伊藤計劃の「ハーモニー」を彷彿させる境地へとたどり着くけれども読後感は星新一の「セキストラ」に近い感じがした。
「機械の精神分析医」のラストで登場した古い映画がなんの映画なのかわからないのだけれども何という映画なのだろうか。
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