『安楽死を遂げた日本人』宮下洋一

『安楽死を遂げるまで』の続編にあたる。
以前に僕が書いた短編小説「Last Vision 未来に花束を」はこの本に触発されて書いた話だ。
今回はスイスで日本人として初めて安楽死を行った一人の女性を中心とした、先の本で描かれた以降の安楽死に関してのノンフィクションである。
安楽死を遂げた女性はNHKのドキュメンタリーとしても作成されたので見た人もいるかもしれない。僕は見なかった。興味がなかったというわけではないが、映像として見てしまうとそのインパクトの大きさに圧倒されてしまうからだ。

でも正直言って、50年以上生きたから、まあいっか、という心境になるんですよね

彼女のこの言葉はおなじく50年以上生きてきた僕にもよくわかる。肉体的にも全盛期は通り過ぎ、精神的にも衰えを感じさせる時間である。やりたいことはしてきたし、もちろんできなかったことややらなかったことも多いのだが、それでもまあやりたいことができたんだからこれ以上欲張ってもしかたないか、という気持ちになる。と同時に、そう思うことで気が楽になる。
この本にはもう一人、安楽死を願った男性が登場する。しかし彼は安楽死を願いながらも実現させることができず、病死する。
しかし、筆者は彼の死後、彼の関係者を取材して、安楽死をしなかったほうが彼にとっては幸せだったんじゃないかと結論づける。
筆者は必ずしも安楽死に肯定的ではなく、かといって否定できでもない。死に方というのは個人個人異なるものであり、そして死は個人だけではなく周りの人間も巻き込みもので、だから安易に決めつけてしまうことができるものではない。
当事者に寄り添いながらも、できる限り干渉せず、あくまで観察者として徹底させようとしている。優れたノンフィクションというのは語り手がどこまで観察者になることができるかによるものではないか。もちろんそれが唯一の正解というわけでもないのだが、観察者に徹底しようとしながらも、時として当事者に寄り添ってしまう筆者の姿は自身の作り出したキャラクターを観察者として徹底させようとしたロス・マクドナルドの小説と同じ匂いがした。
生きる権利について安楽死を遂げた彼女はこう語る。

でも、個人で考えた場合、義務があればそれに向かって生きていけるけど、権利というのは持て余すというのが実感なんです。

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