巻頭の「フィンケルスティーン5」が強烈だ。
五人の黒人の少年少女がチェーンソーで斬り殺されるという事件が起こる。主人公は黒人の青年で就職活動中。数日後に面接試験の予定が入っているのだが、突然相手側からキャンセルの電話が来る。
主人公は毎日の生活の中で自分のブラックネスを上げ下げしている。ブラックネスとは黒人として見られる度合いのことだ。ブラックネスが低ければ低いほど黒人として見られる可能性が少なくなる。
一体何のことをいっているのか、それともこのブラックネスというのはSFとしてのガジェットかなにかなのだろうかと思いたくなるのだが、リアルなことなのだ。何気ない仕草、服装、帽子のかぶり方などそういったことがブラックネスを変化させる。
主人公の物語とそして五人の子どもたちが殺された事件の裁判の様子が交互に描かれていく。いったいなんなのだ、この物語はというのはこの裁判のなかでも強烈に描かれていて、五人もの子供を殺しているのにこの犯人は無罪となってしまう。
恥ずかしながら黒人差別がここまで強く残っているとは知らなかった。
そんな強烈な一篇のあとには心和ませる、といってもそこで描かれている状況は心和ものではないのだが、ちょっとだけ暖かさを感じさせる物語が挟み込まれるのだが、そこから先は理不尽な差別と暴力とそしてそれらに対する飾りっ気のないダイレクトな感情の放出とユーモアだ。
「フィンケルスティーン5」に比べればまだおとなしい「ジマー・ランド」はジマー・ランドというアトラクション施設で働く主人公の物語だが、こちらもその内容は強烈だ。主人公は殺されるためだけの要員として働いている。それも黒人であるがゆえに怪しい人物だとして、アトラクションの客に殺されるのだ。そして主人公は金のために自分に納得させて働いている。
表題作はブラックフライデーを扱った物語だ。日本でもようやく馴染み深いイベントになってきたが、金曜日の大安売りのことで、主人公はとあるショッピングモールで働く店員。彼は売上ナンバーワンの店員なのだが、この物語の奇想はお客がゾンビ化していることだ。理由は明らかにされないし、本当にゾンビなのかもわからない。ただこのブラックフライデーのときだけは会話もまともにできず、ひたすら自分の欲しい物を手に入れるために他人を殺してでも手に入れようとする暴徒化している。主人公はそんな彼らに対して彼らの望むものを売りつけてそして今回もナンバーワンの座を維持しようとする。
最後に収められた「閃光を越えて」はループする世界での暴力の話で、ループが何故行われるのかは説明されない。そもそもループの中で主人公たちはなにもできないのだ。ただ一つわかっているのはループの途中で閃光が走り、何を使用が主人公たちはそこで死んでしまう。閃光は原子爆弾である。途中で死のうが生き延びる努力をしようが閃光が走り、そしてループの最初に戻る。永遠に続くのかそれとも閃光を超える方法があるのか誰にもわからない。
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