『ノーライフキング』が僕にとってあれほど衝撃的な物語で読んだ後もしばらく余韻が残り続けていたのに対して、その後に出た『ワールド・エンド・ガーデン』は読まなかったのは『ノーライフキング』らしい物語を期待してたせいでもある。
ワールド・エンドという魅力的な言葉がタイトルに含まれているにもかかわらずだ。
そのせいで、その後に出た『解体屋外伝』がおもしろそうな内容だったけれども『解体屋外伝』が文字通り『ワールド・エンド・ガーデン』に対する外伝だったので『ワールド・エンド・ガーデン』をその前に読まないといけないと思ってしまったせいでいままでどちらも手を付けずにすごしてしまった。
が、河出書房新社から復刊したとあってはこれはもう、読まないといけないということだなということでようやく手を付けることにした。
『ノーライフキング』にあったような物語はここには存在していなかったけれども、『ノーライフキング』が持っていた先進性というか時代を先取りしていたものはこの物語にも存在していて、この時代のいとうせいこうは凄かったんだな、いや今も実は凄いままなのかもしれないのだが、そう思わせるだけのことはあった。
舞台となるのはムスリム・トーキョーと呼ばれるコンセプト都市。もっとも都市と呼ばれるほど大きま街ではないけれども、再開発にあたってその中心人物がひとつの街をデザインしなおしたという設定だ。その都市に記憶を無くした一人の男がやって来たことから次第に歯車が狂い始め、オウム真理教やその他の新興宗教を彷彿させるような事件が起こり始める。のだが、物語はそこから連想する展開にはならず、記憶を無くした男と主人公との精神的な結びつきの話へと向かう。ある意味、ロバート・A・ハインラインの『異星の客』やロバート・シルヴァーバーグの『時の仮面』、ジャック・ウォマックの『ヒーザーン』に近い雰囲気だ。『ヒーザーン』を読んだのはかなり昔のことなので記憶違いをしているかもしれないが、この三作の中では『ヒーザーン』が一番近い気もする。
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