『謎の独立国家ソマリランド』が評判だったので読んでみようかと思いつつも、まだ読んだことのない作家だったし、値段も値段で電子書籍化されていれば読んだだろうけれども、とりあえず実物を見てから判断してみようかと思っていたら、機会を逃してしまった。というか地方の書店には本の雑誌社の本が入荷されることってのは殆ど無い。本の雑誌社が毎月発行している『本の雑誌』ですら時折思い出したかのような間隔で入荷されるくらいなのだ。
で、とりあえず高野秀行の他の手頃な本を読んでみようかと思い、ちょうどいいタイミングで電子書籍化されたこの本を読んでみた。
うーん、世の中には面白い文章を口から息を吐くかのような感じで軽々と紡ぎだす人がいて、羨ましい気持ちになるのだが、またひとり、その中に入る作家が増えた。
もちろん、軽々とというのは読み手側の勝手な印象に過ぎなく、実際は血反吐を吐くような思いや、推敲に推敲を重ねた結果の文章なのかもしれないのだが、いずれにせよ、結果として表された文章からはそんな苦労の後など微塵も感じさせない面白い文章であることには違いない。こんな文章でもって書かれたらそりゃあ確かに評判になるのも当たり前だ。
『謎の独立国家ソマリランド』は高野秀行がソマリランドに行った時の話で、同じ作者の他の本も基本的には日本以外の国へといった時の話が多いのだが、この本は違い、作者は基本的に東京に居て、東京へやって来た外国人との交流の話だ。そして作者が書いているように、異国の人と共に行動することで見慣れた東京という街が異国として感じる瞬間を捉えている。
そういった意味では、目からうろこが落ちる思いをする話が多い。
例えば、
世界には文字を持たない言語が無数にある。というか、あとで知ったのだが、文字のない言語のほうが多いのだ
僕は本を読むのが好きでそれはつまり文字を読むということであり、それができるのも文字というものがあるからなのだ。そのことを当たり前のように感じていたのだが、文字を持たない言語が多いというのは驚きだった。もっとも、僕がそういう社会で生まれ育ったとしたら文字を持たないことに何の不満も疑問も持たなかったかもしれないし、文字を持つ必用のない社会というのもそれはそれで悪くないのかもしれない。
人間は言葉と想像力で「見る」ことができる
これは最後の章の中に登場する一文だ。ここで登場する異国人は盲目のスーダン人。彼は日本に来て点字の本で勉強をし、様々なことを学ぶ。「明治維新は、遅れた国がどうやって先進国になったのかという点で、すごくおもしろい。」という意見は考えてみればあたりまえのことなんだけれども、そういう視点で考えたことがなかっただけにはっとさせられる。
そして彼は勉強熱心でありながら同時に野球が大好きだ。作者はそんな彼のためにナイターに連れて行ってあげるのだが、ラジオを忘れてしまう。球場ではアナウンサーと解説者の実況中継は聴こえない。そして実況中継がなければ、盲目の彼は球場で何が行われているのかを知るすべがない。そこで作者は彼のために実況中継をする。盲目の彼は実況中継に合わせて自分の野球知識を総動員して解説者としての役割を演じる。
そして人間は言葉と想像力で「見る」ことができるのだと作者は思う。
この本は面白いだけではない。この本には優しさがたっぷりと含まれていたのだった。
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