愛と癒しと殺人に欠けた小説集

今年は伊井直行の新刊が二冊も出るというとんでもない年でありました。
もっとも、過去を振り返れば年に二冊出たことなど何回かあるので、珍しいというわけでも貴重というわけでもないのですが、過去の作品が次から次へと絶版になっていく中で、二冊も読めたというのはやはりうれしいものです。
それにしても伊井直行のどこが面白いのだろうか。
まあ「愛と癒しと殺人に欠けた小説集」などというタイトルのつけかたからして何かしらひねくれているわけで、もちろんタイトルに嘘偽りなど無く「愛」という要素も「癒し」という要素も「殺人」という要素も存在しない。
さらに収録作品の一つ「ヌード・マン」などは、雑誌掲載版の「ヌード・マン・ウォーキング」のロングヴァージョンでありながら、どちらが先に書かれたというわけではなく、両方とも平行して書かれたというのだからいったい何を考えているのだろうこの作者は。
もちろん変なのは書かれ方だけではなく、内容の方だって変で、娘にいつか捨てられるだろうと思っている中年お父さんの独白から始まってどこへ物語が進むのかと思えば、このお父さんの全裸で外を歩き回りたいという悪癖の話へと向かっていくのであります。そりゃそんな悪癖を持っていたらいつかは娘に捨てられるよというか家族からも社会からも見捨てられるよお父さん。
しかし真に驚愕すべきはこの話の到達地点で、わずか数行の間に途方もないほどの時が流れて行く有様はそれまでの展開を吹き飛ばすほど強烈ではないが、ある種の感動さえ覚えてしまうのです。
「ヌード・マン」に比べると他の作品はおとなしくなってしまうのだけれども、どれもが不思議な味わい。小説のジャンルに「奇妙な味」というジャンルがあるのだけれども、ここで語られるのは奇妙な味ならぬ「奇妙な人」。しかし奇妙な人でありながら同時に何処にでもいるような普通の人だったりもするのだから始末に負えないところだったりもします。
内容の方もくせ者だけれども、この本の装幀もくせ者。確かに鏡だよねえ、これは。