『塩素の味』が話題になっていた、といってもアメコミやバンド・デシネといった海外の漫画が好きな人達の間でだけなんだけれども、そのバスチャン・ヴィヴェスの最高傑作が翻訳された。
生憎と『塩素の味』は未読でそれというのも地方の書店だと入荷すらしない事が多く、すっかり忘れてしまっていたせいなのだが、試し読みを読んだだけでも、絵柄の好き嫌いは抜きにしてただならぬ物を感じ取ることができるんじゃないだろうか。なんてことを書いているだけで、早速買って読んでしまいたくなるのだが、値段が値段だけにやはり少し躊躇してしまう面もある。
一方、『ポリーナ』のほうは本の大きさも値段もグッと下がってお手頃価格に近づいている。まあ日本の一般的な漫画の値段と比べるとまだまだ高いのだが……
それはさておき、『ポリーナ』はバレエ漫画であり、フランス人作家の漫画でありながらロシア人の女の子を主人公に舞台はロシアだけではなくドイツ等のヨーロッパを舞台にするお話だ。
バレエ漫画というと日本の場合、少女漫画ならばわりと多そうなんだけれども生憎とそっちの方面は疎いので思いつくものがない。唯一思い浮かべることができるのは曽田正人の『昴』だ。ただ、『昴』の場合、11巻で一旦中断してしまい、僕自身もそこまでしか読んでいない。中断して五年後に『MOON -昴 ソリチュード スタンディング-』という題名で再開されたのだが、再開した『昴』は読まなかった。それは多分無意識に直接的な続きではなく、もちろん物語としては続きだろうけれども、作者が描こうとしたものは中断するまでの『昴』とは異なるものだろうと感じたからで、それがあっているのかどうなのかはわからないけれども、作者が再開するまでに五年の歳月がかかったのと同様、僕自身も読むのにしばらくの期間が必用なのだろうと思ったのだ。
で、『昴』はバレエの天才少女の描いているのに対して『ポリーナ』の主人公であるポリーナも、他の人よりの才能のある少女として描かれる、いや正確には才能の片鱗すらろくに描かれてはいない。あくまで彼女を取り巻くまわりの人間が、彼女の才能を見出しているだけだ。それゆえにというわけではないが、物語の中で彼女は悩み、自分自身の生き方を探そうとあがく。才能はあるけれども、その活かし方がなかなか見つからないのだ。『塩素の味』と比べると、絵のタッチもがらりと変わり、モノクロを主体にラフな線で描かれる一コマ一コマはそれだけを見るとこの漫画のどこがそんなに凄いのかと思ってしまうのだが、ラフでありながらもデッサンとしての部分はまったくおかしくなく、一連の物語の流れにそって読んでいると、そのラフさが全く気にならず逆に心地よくさえ感じてくる。特に背景の部分は素晴らしい。この感覚はどこかで味わった事があるなあと思ったのだが、福山庸治の『マドモワゼル・モーツアルト』がこの雰囲気に近いかんじだ。
才能のある少女とその才能を見出した教育者の物語。二人は互いに違う道のりを歩む事となったのだけれども、長い時間の間、離れてしまったようでいて実は根底の部分ではつながったままだったということがわかるラストシーンは、ずしりと来るような感動ではなく、主人公が踊るバレエのように軽やかな感動を味わうことができる。
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