米沢 穂信著
たいした考察もせずに勝手気ままな考えを書きつづるならば、米澤穂信はどれだけ後期クイーン問題に自覚的なのだろうか、ということになる。
例えて言えば、法月倫太郎が後期クイーン問題に悩んでいるとすれば、米澤穂信は後期クイーン問題と戯れているような気がする。
<古典部>シリーズにおいても探偵は探偵であることを利用される。しかし省エネをモットーとするこの探偵は自ら進んで事件に関与しようとはしない。探偵にとっては、利用されることよりも関与せざるを得ない状況のほうが重要な問題となっている。
一方、「犬はどこだ」における探偵は、職業として選択してしまっている以上積極的に関与せざるをえない状況にあるのだけれども、あくまで犬探しと限定させることで関与に制限を設けている。そしてなによりも、最後に謎は解き明かすのだけれども、犯人には敗北する。ようするに事件そのものに関与せず、あくまで傍観者という立場をとり続けようとするのだ。
積極的に事件に関与しようとしないという設定においては<小市民>シリーズの探偵はさらに上回っているのだけれども、これは単に都筑道夫が物部太郎という名探偵を作り上げたのと同じ理由にすぎないという可能性もある。しかし名探偵の関与を遅くするということで事件解決を先延ばしにすることは長編だから効果があることであって短編の場合はあまり意味がない。では、短編において積極的に謎解きをしようとしない探偵の存在意義とはなんなんであろうか。
いずれにしよ<小市民>シリーズの探偵は本作で後期クイーン問題に対する自分の解決の仕方に疑問を抱かせざるを得ない状況に陥られる。読んでいて背筋がゾクゾクした瞬間ではあるが、この状態でこのままこのシリーズを終わらせてしまったのであれば、ある意味もの凄い作品だったとして語り継がれることとなったかも知れない。
しかし、幸か不幸か続編が予定されている。言い換えれば、この先の探偵の取るべき道に対しての解答が用意されているということであるのだが、ひょっとしたら解答なんてものは存在せず今まで作者が描いてこなかった恋愛要素が入り込むのかもしれない。あくまで後期クイーン問題は成長小説の為の舞台装置にすぎないだけの可能性もあるのだ。
で、まあ結論は続編が非常に気になる。というだけなんですが。
例えて言えば、法月倫太郎が後期クイーン問題に悩んでいるとすれば、米澤穂信は後期クイーン問題と戯れているような気がする。
<古典部>シリーズにおいても探偵は探偵であることを利用される。しかし省エネをモットーとするこの探偵は自ら進んで事件に関与しようとはしない。探偵にとっては、利用されることよりも関与せざるを得ない状況のほうが重要な問題となっている。
一方、「犬はどこだ」における探偵は、職業として選択してしまっている以上積極的に関与せざるをえない状況にあるのだけれども、あくまで犬探しと限定させることで関与に制限を設けている。そしてなによりも、最後に謎は解き明かすのだけれども、犯人には敗北する。ようするに事件そのものに関与せず、あくまで傍観者という立場をとり続けようとするのだ。
積極的に事件に関与しようとしないという設定においては<小市民>シリーズの探偵はさらに上回っているのだけれども、これは単に都筑道夫が物部太郎という名探偵を作り上げたのと同じ理由にすぎないという可能性もある。しかし名探偵の関与を遅くするということで事件解決を先延ばしにすることは長編だから効果があることであって短編の場合はあまり意味がない。では、短編において積極的に謎解きをしようとしない探偵の存在意義とはなんなんであろうか。
いずれにしよ<小市民>シリーズの探偵は本作で後期クイーン問題に対する自分の解決の仕方に疑問を抱かせざるを得ない状況に陥られる。読んでいて背筋がゾクゾクした瞬間ではあるが、この状態でこのままこのシリーズを終わらせてしまったのであれば、ある意味もの凄い作品だったとして語り継がれることとなったかも知れない。
しかし、幸か不幸か続編が予定されている。言い換えれば、この先の探偵の取るべき道に対しての解答が用意されているということであるのだが、ひょっとしたら解答なんてものは存在せず今まで作者が描いてこなかった恋愛要素が入り込むのかもしれない。あくまで後期クイーン問題は成長小説の為の舞台装置にすぎないだけの可能性もあるのだ。
で、まあ結論は続編が非常に気になる。というだけなんですが。
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