スザンヌ・ヴェガが引用されていて驚いた。
僕は筒井康隆の『旅のラゴス』を読んだ時に初めて文体というものを意識したというか文体というものがどんなものなのかということを初めて感じ取ることができたのだが、それと同じように、スザンヌ・ヴェガの音楽を聴いた時、初めて人の声というのも楽器であり、音楽の一部なのだということを意識した。それまでは楽器が奏でる音楽と歌は別々に感じ取っていたのだ。スザンヌ・ヴェガのささやくような歌い方は、決してパワフルではないものの、その静かな衝撃は僕の意識を決定的に変化させたといっても過言ではない。
そんなスザンヌ・ヴェガの詩が引用されていたのだから、思わず期待値が上がったのだが……
期待していたような物語ではなかったので、読み終えた今、この物語をどう受け止めればいいのか悩んでいる。
もっとも事前の知識といえば、ハードSFでファーストコンタクト物という程度なので、そこからどんな物語を期待していたのかといえば『宇宙のランデブー』とか『ソラリス』あるいは『砂漠の惑星』といった物語だったのかもしれない。
確かにこの物語もそういった局面は持っているのだが、そもそも地球側のメンバーが、吸血鬼、四重人格者、身体の感覚器官の大半を機械化した生物学者、平和主義の軍人、そして語り手は脳を半分失った男性という奇妙な集団で、それぞれの役割に対する説明を受ければ、こんな風変わりな人選であることに納得はいくのだけれども、それでいて語られるのが素直にコミュニケーションすることが困難な異星人とのファーストコンタクトの物語となると、読んでいても素直に頭のなかに情景が入ってこない。
それでも細部は頭に入らなくっても大筋はなんとかついていくことはできて、何度も死にそうになりながらも巨大建造物の中に突入していく有り様はバルジス・アドリスの『無頼の月』っぽかったり、吸血鬼の存在に対する科学的なアプローチ、特に十字架を怖がる原因の説明には思わず唸ってしまったのだが、ファーストコンタクトと意識の問題をくっつけて描くという力技は面白いのは確かなんだけれども、もう少し読みやすいと良かったなあと思ってしまう。
ネット上ではワイドスクリーン・バロックだと言っている人がいて、ああ、そうか、ワイドスクリーン・バロックとして読めばよかったんだなあとも思ったけれども、真面目すぎるこの小説はワイドスクリーン・バロックじゃあないよなあ。軽薄さがちょっと足りない。
こういう傾向のSFを読むのには歳をとってしまったのかもしれない。
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