六枚道場という文芸サークルがある。サークルといってもネット上だけのゆるやかなつながりで、参加するのになにか特別なことが必要というわけではありません。
毎月、原稿用紙6枚以内の小説または詩・俳句を募集してそしてネット上で公開してtwitterで気に入った、あるいは好きな作品を投票するということを行っています。詳細は六枚道場 ガイドラインを読んでいただくのが一番いいのですが、面白いのは作品を書いて応募するだけではなく、応募された作品を読むということだけでも参加したことになるということです。
すでに五回まで開催されていて四回までは読むだけだったけれど、ちょっと思うところがあって第五回に参加してみることにしました。
といっても新たに原稿用紙六枚の作品を書いたわけではなく、過去に書いたものを推敲して応募したわけです。
それが「なき女」で、僕にとっては50歳を過ぎて初めて書いた小説で、これについてはいろいろと書いたことがあるのであれこれと書かきませんが、六枚道場に参加していろいろな方から感想をいただいて、書き手の自分が思ってもなかったような読み方とかいろいろと示唆に富む意見とかがあって、とても勉強になりました。
ラストのオチに関しては、好意的な意見もある一方で、オチが読めてしまったとかもう一捻りほしかったとかそういった意見は比較的多くて、言われてみればそうかもしれないなあと。
まあそこのところは切れ味のあるオチを書きたかったわけではなくって話の展開からするとあの結末に結びつくのが一番きれいだなあと思ったからです。
なので、完璧であること自体が弱点になっているとか、ある意味予定調和すぎるような感を受けたとか、わかりやすく説明のつくスリラーという意見はまさにそのとおりで、そう言ってもらえたことはうれしいです。
この物語の後半は謎解きと物語を結末にたどりつかせるための消化試合のようなものでもあったので、物語の前半が好きだという意見はとても嬉しいかったです。
物語の前半の部分というのは昭和の時代を反映させている部分があって、それは原稿用紙6枚という分量ではそういったところまで書くことなどできないので昭和の時代の差別的なものというのを知らない人にどのように受け入れられるのかというのは不安な部分もありました。ようするになき女というのは、いるのにいない、見えない人で、僕が子供のころにはそういった、いるけれどもいない、見えない人というのは存在していたのです。いまでいうところのホームレスに近いのかもしれません。そこにいるのだけれども目を背けて見ようとしない、だから見えない人なのです。
物語のなかで祖母がなき女を見ても見てはいけないというのはそういった差別的な感情からで、子供たちはそういった大人たちから差別を受け継いでいました。僕も含めて。
昔はお正月など初詣に行きますと、神社の参道の両脇に傷痍軍人が物乞いをしていました。あれは傷痍軍人のフリをしているだけだと祖母に言われたことがあります。まだ子供の頃だったので真偽がわかるはずもなく、いまとなってはもうそれさえも確かめるすべもなくなりました。どちらにせよ彼らもいるのにいない、見えない人だったのです。
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