生きていても役に立たない

生きていても役に立たないからそういった人々を殺した犯人に死刑を求める行為は犯人と同じ論理に立っているのではないだろうか。
相模原市の知的障害者施設で入所者19人を殺害した植松被告に対する検察側は死刑を求刑した。
もちろん19人もの人を殺めたという時点で死刑は妥当だと思うのだが、それと同時に裁判でも自分の考えの正当性を主張し続けで更生の可能性は皆無というのも求刑の理由の一つだということに僕はショックを受けた。
更生の可能性が皆無だから死刑というのは生きていても役に立たないというのと同じ理屈につながるのではないだろうか。
被害者の遺族のひとりがこう発言している。
「一人の若者に生きる価値がないと言うのはやはりつらいです」
ここでいう一人の若者とは植松被告のことだ。ものすごく真摯で理性的な発言で、僕が仮に大切な人を殺された遺族だったとしたらこんなことを言うことができるのだろうかと考え込んでしまうくらいに立派な発言だと思う。
自分がその立場になったとしたら感情的に見れば僕も死刑を求刑したい、というか自分の手で裁くことができるならばそうしたいと思うだろう。ただそれでも理性で抑えることはすると思うので、罪を憎んで人を憎まずの精神でいきたいと考える。
そうしたときに、目の前に突きつけられるのは冒頭に書いたことだ。
僕は積極的な死刑廃止論者でもないので死刑という制度を否定はしていない。だからこのような事件の場合は死刑しかないだろうと思う。仮に百歩譲って無期懲役だとした場合、更生してくれる可能性が皆無という状況でこの世界で生きながら被告と同じ空気を吸っていたくないという感情は否定し難い。
つまりこの世に存在していてほしくないから死んでほしいという感情だ。
そこに、植松被告の考えとの違いはあるのだろうか。
なにも悪いことをしていない人を殺した人間なのだからそんな考えをしなくてもいい、という考え方ももちろんある。悪いことをしたのだから死刑なのだと。
でも、それでもだ。
例えば死刑にせずに無期懲役にした場合、自分の考えを悔い改めて自らの罪を償おうとする可能性もゼロではない。だから死刑ではなく無期懲役にしたほうがいいのではないだろうか。
「一人の若者に生きる価値がないと言うのはやはりつらいです」
やはりこの言葉はとても大切なのだと思うのだ。
もちろん、みんながみんなこのような考えをしなければいけないと言いたいわけじゃない。むしろこんなふうには考えないほうがいいとさえ思っている。そんなふうに思ってしまったら、被害者の遺族は、自分も犯人と同じなんじゃないかと二重に苦しまなければいけないからだ。
だったら、自分も考えなければいいじゃないかと思うけれども、でもまだ自分がもう少し苦しむことができる間は、悩んでみようと思っている。

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