久坂部羊の小説に『廃用身』という小説がある。
廃用身とは脳梗塞などの原因で動かすことのできなくなった回復の見込みのない手足のことを指す医学用語だ。
そしてこの物語は廃用身を抱える患者の治療のために廃用身を切除する手術を行うという話である。物語の中でこの手術を行った患者はみるみるうちに元気を取り戻していく。
『開放老人』というこの本のタイトルを見たときに真っ先に頭に浮かんだのは久坂部羊の小説『廃用身』だった。
小説の中で患者たちは開放されていくのだ。
では、この本であつかっている認知症の人々は何から開放されるのだろうか。もちろん『廃用身』はフィクションでそしてこの本はノンフィクションである。小説のように都合よく開放されるとは思わない。そもそも悪くなることはあっても良くなることはない認知症。そしてその苦しみは当人だけではなく介護する家族も苦しめる。
果たして苦しみから開放されるのだろうか。
僕も半世紀を生きてきて、この先は悪くなることはあっても良くなることはない。ましてや今はまだ大丈夫だが認知症にならないとは限らない。そうなったときに自分でそのことを理解することができるのだろうかと考えることがある。初期の頃であれば自分が認知症であることを理解できるかもしれないが、ひどくなったら多分無理だろう。それ以前に自分がおかしいという認識などできないのではないかと思う。自分がおかしいとは思わないから、自分に起こる異変はすべて自分以外が原因だと考えてしまうだろう。
僕の妻は統合失調症である。認知症ではないが自分に起きた異変の原因が自分にあるという認識をすることができない。自分に起きた異変はすべて事実でその原因は自分以外の世界にあると信じている。
妻の状態を見ているとそれはやがて自分に起こる出来事と同じなんじゃないか、そう思う。
ではそこに救いはあるのだろうか?
たぶん、現実の世界に踏みとどまろうとはせずにそのまま突き進んでいく。
それが開放につながるんじゃないか。そう思うのだ。
コメント