物語の力

妻は本を読むことは嫌いではないが、読むのが遅い。
一冊の本を読むのに1ヶ月くらいかける。もっともこのくらいは普通なのかもしれないし、遅いから悪いというわけではない。
統合失調症になってからは集中力が続かないらしく、読む速度はさらに遅くなったが、それでも調子の良い時は少しずつ本を読んでいる。
読むのはもっぱらエッセイのたぐいで小説は読まない。
若い頃は小説も読んでいたようだが、これまたやはり、統合失調症になってからは物語に興味がなくなってしまったようだ。
世の中には物語を必要としない人がいる。
かといって本を読んだほうが良いといいたいわけではない。
僕は物語を必要とする人間で、だから、物語を必要としない人が不思議でならない部分がある。
どうして物語を必要としないのだろう、いや、物語がなくても大丈夫なのだろうか。
多分、物語が必要ではないというわけではなく、自分自身の人生という物語だけあれば十分なのかもしれない。
僕の両親も弟も本は読むけれども小説はほとんど読まない人だった。
物語を必要としていたのは家族の中で僕一人だけだった。
母は僕が小さい頃、本を与えておけばおとなしくしていたので、育児の手間を減らすために僕に本を与えていたそうだ。
別にそのことに対して母に文句を言うつもりもないし、母が本を与えていなかったとしても、自発的に物語を求めていたかもしれない。
だから、僕が物語を必要とする人間になったのを誰かのせいにするつもりもないし、後悔しているわけでもない。
小説を読まない母だったので本の話をするということもなかったのだが、それでも二回だけ本のことで話をしたことがあった。
一冊は泡坂妻夫の『乱れからくり』だ。小学生の頃だったが、その頃、ラジオドラマで『乱れからくり』をやっていて、それが面白かったので原作を読もうと思ったのだ。母と一緒に本屋さんにいって、そしてそこで角川文庫の『乱れからくり』を買ってもらった。母もまさか小学生が角川文庫の小説を買うとは思っても見なかったようで、随分と大人の本を買うんだねえと、少し驚いたのかそれとも感心したのか、そう僕に言ったことがあった。
もう一冊は壺井栄の『二十四の瞳』を買ってもらったときのことだ。これも小学生の頃のことなのだが、何故、壺井栄の『二十四の瞳』を買おうとしたのか理由は思い出せない。どう考えても当時の僕の好みの話ではないし、学校の課題として読まなければいけなかったというわけでもない。なにか他に理由があったのかもしれないのだが、とにかく僕は本屋さんで壺井栄の『二十四の瞳』を手に取った。その時母が、この本は知っているわ。私も若い頃に読んだことがある、と言った。
本に関しては何も母と接点のなかった僕だったが、『二十四の瞳』という物語を通して母と繋がった感じがした。それは今でもそのまま残っていて、だから僕にとっては『二十四の瞳』という物語は少しだけ特別な物語だ。
そして今年は壺井栄の著作権保護期間が終了して著作がパブリックドメインになる年である。

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