この本は、古今東西の物語の書き出しの一行だけを集めた本である。
というのは嘘である。
この本に集められたのはこの世に存在しない、ひょっとしたら存在するのかもしれないが、一般的には陽の目を見ることのない架空の物語の書き出しの一行である。
そんな、ありもしない物語の書き出しの一行だけを集めて、しかもそれをわざわざ一冊の本にするなんて意味のあること、いや価値のあるものなのだろうかと思った人は騙されたと思ってこの本を読んでみるといいと思う。
全てが琴線に触れる、とまではいかないが、この続きを読んでみたいと思わせる書き出しが沢山収録されている。
小説の書き出しで僕がすぐに思いつくのはウィリアム・アイリッシュの『幻の女』の書きだしだ。
夜は若く、彼も若かった。が、夜の気分は甘いのに、彼の気分は苦かった。
である。ウィリアム・アイリッシュが別名義のコーネル・ウールリッチ名義で書いた『喪服のランデブー』の書き出しもまた良い。
二人は毎晩八時に逢った。 雨の降る日も雪の日も、月の照る夜も照らぬ夜も
も好きな書き出しのひとつだ。
しかし、小説の場合は残念なことに、書き出しのすぐ後に、次の文章が続く。書き出しの一文だけ抜き出してこうして書いてみると、その素晴らしさがわかるけれども、すぐ後に次の文章が続くとその素晴らしさがすこしだけ霞んでしまうことが多い。
だからこそ、この本の存在価値というものはあるわけで、思う存分、書き出しの素晴らしさを味わうことが出来るのである。
一方で、最後の一行というのはあまり話題になることは少ない。
僕が知っている範囲だと、斎藤美奈子の『名作うしろ読み』という本が最後の一行を扱っている本なのだが、最後の一行というのはそれまでの物語を受け止める一行でもあるので、それだけを抜き出してもあまりおもしろくないのかもしれない。
ただ、横溝正史の「百日紅の下にて」という短編のラストの一文は印象に残っている。
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