10年ぐらい前からこの本の存在を知り、とはいえどもその時点で既に絶版。古書を探すしかないのだが、児童書のためか古書としても世にでることがまったくない。復刊ドットコムに復刊のリクエストをしたものの、リクエストしたからといってすぐに復刊されることもない。もともとが『鬼ヶ島通信』という同人誌に連載されていたものなので、こちらのほうのバックナンバーを入手しようかとも考えたのだが、その時点ですでに初期のバックナンバーは在庫がないという状況だったので、この方法も駄目である。
残された唯一の手段はというと図書館で借りることなのだが、これはあくまで借りる、であって手に入れるわけではない。
とそんな悶々とする日々が続いていたのだが、近所に新しく図書館が出来たとなると、この最後の手段を使うしかない。
というわけで、閉架にあったこの本を予約し図書館で借りて読んだ。
まず驚いたのは本の厚さで、370ページ近いページ数というせいもあるが、児童書だけあって紙そのものの厚さも厚いことがこの本の分厚さの一番の理由だろう。
この物語がどんな物語なのかというのは既に知っている。殺人事件の起こるミステリである。
さらにいえば犯人も知っている。
だからその点に関しては驚きはまったくない。
次々と家族が亡くなっていき、唯一最後に残った次男がこの一年間に起こった出来事を振り返って語るという形式だ。
最初にカメラマンである主人公の父親が死ぬ。スタジオとして使っていた離れの建物のなかで首を切られ死んでいるところを発見されるのだ。仕事中はよほどのことがない限り誰も入れさせようとはしなかった父親が殺されているということで密室殺人として扱われる。次に亡くなるのは主人公の兄である。台所でじゃがいもをゆでていた大鍋の熱湯を被って大やけどを負い、亡くなる。この時点で屋敷の見取り図が登場する。さらに、父親の死と兄の死が、父親の友人が戯れに歌った唄『その頃はやった唄』という唄の通りの死に方であることが判明する。密室殺人、館の見取り図、そしていわゆる童謡殺人と、ミステリ好きにはたまらない要素が詰め込まれている。
その後、心を病んでしまった母親が殺され、主人公の友人が殺され、そして姉も殺される。友人の殺害方法などはちょっとしたトリックがあって手が込んでいるのだが、ここまで来ると犯人が誰なのかは誰でも想像がつく。語り手の少年が犯人なのだ。しかし想像がつかないのは動機である。
本格ミステリとしてみた場合、細かな部分で瑕疵はあるけれども、退屈だったから殺したという動機は衝撃的でもある。もちろん退屈だったからだけではなくもともと抱いていた兄に対する憎しみや、心を病んでしまった母親の、もう元には戻らないのだという悲しみからの殺害という理由もあるので単純に退屈だったから殺人を犯したというわけではない。しかし動機という点において、こんな動機による殺人を児童文学として書くのかといいたくもなる。
さらには最後の最後に判明する姉の弟に宛てた手紙の内容が衝撃的だ。
姉は早い段階で主人公が犯人であることを見抜いていてそれでいて、おそらくは姉も退屈であり、連続殺人事件を楽しんでいたことがわかる。しかしその一方で、弟に殺されることを望んでいて、手紙の中で自分を殺すことを示唆する。さらにはその手紙の最後で弟に対して、自殺することをそそのかす。それは最後に残った弟への愛情でもある。
『その頃はやった唄』は6番まで歌詞がある。そして6番目の最後の唄が、自分自身が林檎の木で首をくくりブランコをしているという内容であることが判明して物語は終わる。
この本の表紙は主人公とその姉が、枝からブランコがぶら下がっている林檎の木の横に立っているという絵である。読み終えて表紙の絵を見なおしてみると、そこにはこの絵が何を意味していたのかがわかり、背筋が寒くなる。
コメント